第七回大岡信研究会報告
大岡信さんと私ー二つの言語を通してー「折々のうた」の英訳
第七回大岡信研究会は、講師にドナルド・キーン氏の愛弟子であり、正岡子規、与謝野晶子など日本の近代詩歌の研究で著名なジャニーン・バイチマン氏を迎えて行われた。
バイチマン作新作能Drifting Fires を大岡信が「漂炎」に和訳するなど二人のさまざまな交流の中から、講演は「折々のうた」の英訳を中心に進められた。まず、大岡信の詩への姿勢を示すものとして、バイチマン氏は、配布資料の冒頭に、第五回講師の八木忠栄氏が引用した「泥について」(「文明のなかの詩と芸術」思潮社1966年)の最後部分「・・・いつでも泥みたいに不定形でありたい。直立不動の姿勢は真平だ。」を揚げた。また、「折々のうた」(岩波新書版1980年)のあとがきを引用し「私は古今の詩句を借りてそれをあらゆるやかな連結方法によってつなぎとめながら、全体として一枚の大きな言葉の織物ができるように、それらを編んでみたいと思ったのである。」という大岡信の壮大な展望を改めて喚起させた。
「折々のうた」の英訳は、朝日新聞の英字紙Asahi Evening Newsに、 A Poet’s Notebookと題して掲載されて始まったという。当時のコラム内の構成は、ローマ字でフリガナがつけられた日本語詩歌が中央に、バイチマン氏の英訳が左に、そして大岡信の文章の英訳が右に掲載されていた。英訳するにあたって、二人の間で頻繁にファックスのやりとりがあった。そのコピーがスクリーンに示され、大岡が語順の変更を提案する添え書きや、バイチマン氏の英訳を讃えた勢いある筆跡など生き生きとしたコミュニケーションが見られたのも興味深かった。
相良宏の短歌「白壁を隔てて病めるをとめらの或る時は脈をとりあふ声す」(1992年7月12日掲載)を採りあげ、バイチマン氏が「をとめ」をどう訳すかに悩み、日本人の夫君や当時中学生の娘さんの意見も聞いて、最終的に「病めるをとめら」はthe feverish virginsとしたエピソードが語られた。氏は、翻訳は決して一人だけでするものではなく、いろいろな意見を聞いたり、取り入れたりすることで、より良い翻訳が可能になると強調した。
この英字新聞掲載の英訳をとりまとめて、1994年5月にA Poet’s Anthology The Range of Japanese Poetry (序文ドナルド・キーン氏)がトマス・フィッツシモンズ氏(詩人、大岡信と連詩「揺れる鏡の夜明け」を刊行)により発行された。この時、フィッツシモンズ氏から「季節ごとに詩歌を整理する必要はないか」との問い合わせに、大岡は「ノー」と極めて強い調子で回答した・・というのも、その理由には、「不定形の泥」も思い起こされるなど、いろいろ考えさせられる興味深い話だろう。
講演で、思いがけない贈り物は、バイチマン氏が英字紙に掲載された「折々のうた」から十三の日本語の詩歌とその英訳を朗読したことである。日本語、英語のいずれも美しい発音と調べで朗誦され、参加者を魅了した。朗読の途中、翻訳の苦心談も語られたが、中でも、蕪村の「月天心貧しき町を通りけり」の「貧しき町」をどう訳すか・・と考えていた時、「ゲットー」という言葉を思いついたという。翻訳の際、元の言語の背景を大事にするかあるいは英語圏あるいは西洋文化に則した言葉を使うかとの選択は、難しく、思案のしどころ・・とバイチマン氏は述べたが、この「ゲットー・ストリート」により、蕪村の俳句は、確かに地球的空間と時間を持ったといえるだろう。参加者は、平安時代から現代までの幅広い日本詩歌の英語訳を、翻訳者から直に聴くという経験によって、韻、リフレイン、表記方法など、詩のさまざまな要素が呼び起こされて、楽しく魅力的な研究会が実現された。(越智淳子:大岡信研究会運営委員)