第八回大岡信研究会報告
第八回大岡信研究会『大岡信と「櫂」―その頃とそれから―』
三浦雅士(文芸評論家、日本芸術院会員)
2017年1月29日、文芸評論家で日本芸術院会員の三浦雅士氏による『大岡信と「櫂」―その頃とそれから―』と題する講演に、大勢の聴衆が参加し、質疑応答も活発な盛会となった。
1969年頃『ユリイカ』の編集に携わるようになった三浦氏が初めて会った大岡は、すでに大きい存在だったが、時間が経るにつれ「山並みの中で、大岡さんは相当に大きい山」であることがわかってきたという。
若き大岡が、卒業論文としては実に本質的で十分文壇でも通じる夏目漱石論を書き上げていたにもかかわらず世に発表しなかったことや、当時の風潮では取り上げること自体避けるような保田與重郎について大岡が評論を発表したこと、これを文壇のスターだった三島由紀夫が激賞したのだが、大岡は特段喜んで三島に近づくこともなかったことを例に挙げ、大岡が、小説・批評を中心としたいわゆる「文壇」にあえて接近しなかった背景には、なによりも「詩」を第一とする大岡の考えが読み取れると指摘した。そこには、短期の風潮で動く「文壇」から遠く離れ、大きな流れの中でものごとを捉える大岡の特長がみえるという。この視点の距離感、大きさは、紀貫之や藤原定家らの作品の捉え方、また萩原朔太郎論の中においても明らかであるという。
大岡が加わった詩のグループ『櫂』は、メンバー自身も語っているように、仲良しクラブのようで、ぼわっとした感じのせいか、戦後詩史においては、先鋭でスターが揃う『鰐』のグループほど重要でないかように認識されているが、『櫂』のほうが実は圧倒的に重要なグループであることがわかってきたという。大きなタイムスケールの中で「詩」を捉え得る大岡を迎えた『櫂』は、大岡が安東次男、丸谷才一と一緒に巻いていた歌仙に刺激され、1971年に「連詩」を始めた。この『櫂・連詩』こそ、日本文学において非常に重要である「合わす心」ということを「詩」において試みた最初であり、日本語がどのようなもので、日本文学における最大の形式としての五七五七七が、どういう意味を持つか、ということに関しても、実感的に深いことを行った類のないグループであったという。この試みも、日本文学の大きなうねりの中で現在の「詩」を考察する大岡の「捌き」があってこそであったと三浦氏は指摘した。
資料として配布された『櫂・連詩』の「第三回珊瑚樹の巻」、「第六回夢灼けの巻」に触れながら、氏は、その中で行われた詩行の実験や、合わせていくプロセスで一層露わに出てくるそれぞれの個性を紹介しながら、(例えば茨木や吉野のわかりやすさはその理屈からくること、谷川の理性や大岡の直感など)、『櫂』の文学史上の意義について言及していった。
また三浦氏は、人間の重要なことは、「人柄がいい」ということが一番であり、それが文学の根本なんだということをはっきりと確信していたのが大岡信だと指摘。それが『櫂』の原理であり、『櫂・連詩』が出来た前提であると分析した。
三浦氏のテンポのよい語り口と、エピソードを交えた多彩な分析に、新たな大岡像が摘出され、あっという間の1時間半であった。(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)