第十八回大岡信研究会「大岡信『文学的断章』をめぐって」講師:堀江敏幸氏(作家)
大岡信研究会は、新型コロナウイルス感染症の影響を受けて、5月に堀江敏幸氏を講師に迎え予定していた第十八回研究会を延期し、その再開を検討した結果、9月20日にズームを利用した研究会を成功裡に開催した。講師の堀江氏は、芥川賞はじめ多くの賞を受賞している作家であり、フランス文学者で、大岡信の『紀貫之』(ちくま文芸文庫)に解説を書かれている。堀江氏は、大岡が第二次『ユリイカ』創刊号(1969年7月号)から1979年5月号まで連載した「文学的断章」をまとめた6冊の書物(『彩耳記』、『狩月記』、『星客集』、『年魚集』、『逢花抄』、『宇滴集』)を取り上げた。「文学的断章」は、これまであまり論じられてこなかったので、今回の講演は大岡信の新たな側面に光を当てる絶好の機会となった。
堀江氏の大岡との出会いは、受験参考書などで大岡の文章に触れていたが、本格的に読むようになったのは「折々のうた」という。それを読むために、中日新聞に加えて朝日新聞を購読するよう家族会議を開いたという岐阜での高校時代、堀江氏は「折々のうた」に展開される、評論のようであり詩のようでもある、柔軟な流れや繋がりをもった書き方を読者として体験したと語った。
断章形式は、フランス文学においては、モンテーニュの『エセー』やパスカルの『パンセ』、ポール・ヴァレリーの『カイエ』、ジャン・グルニエ、アルベール・カミュ、ジョルジュ・ペロス、エミール・シオラン、ロラン・バルトなど多くの作家、詩人、哲学者によって書かれており、フランス文学において断章形式は伝統的であることを紹介し、大岡の先生である寺田透がポール・ヴァレリーの翻訳者であったことからも、大岡はヴァレリーに親しんでおり、断章形式は大岡にとって近しいものだったのではないかと推察した。
まず堀江氏は、各書籍の装丁を考察した。最初の『彩耳記』には、1972年版、1975年版、1979年版の3種類あることを画像で示しながら解説。それぞれの装丁および文字、行間等によって印象が異なることを指摘した。美術に関心の深い大岡が自ら装丁に携わったことは、大岡がどのようなかたちで本を読んでほしいかにも気にかけていたのではないかと推察し、内容と不可分のものとしてテキストの形式、書籍の外観というものに大岡が意識的であったことを指摘した。
また氏は、「文学的断章」連載中の1974年12月号から1976年4月号まで間があいていることに注目した。この中断は1975年1月から1976年12月まで朝日新聞の「文芸時評」を担当することになったためであった。そして大岡の「文芸時評」は、一つの文学作品を取り上げるというより、書き方あるいはテーマを決めてまとめていくという方法を取った、いわば断章であり、ユリイカの「文学的断章」の書き方に非常に影響を受けているとする興味深い指摘があった。
また、「文学的断章」の連載が続いていくにつれ、書き方が変化していくことにも注目する。初期には、アフォリズムのような鋭い断片が並んでいることが多かったが、シリーズが進んでいくにつれて、日記や身辺雑記、若い頃に訳した詩の断片や他者のテキスト、新聞記事の引用、全集の推薦文、追悼文、季節に合ったネタなど、非常に多彩で自由な器になってくると指摘した。時間が輻輳し、短い断章が伸び縮みし、何か見えない蔦のようなものが絡みあい、どんどん育っていくようなかたちになっていくという。
また、大岡が、これらの断章群を書き継ぐ中から、断片と断片のあいだに「波動」が生じ、さらに「うつろい」が生まれるなど、いろいろなものを「合わせ」ながら、長く書き続けることでしか出てこない運動性を予感していたのではないかと、「文学的断章」で引用されたエリック・ギルの『衣裳論』やジャコメッティに関する大岡のテキスト等を読み解きながら指摘した。
堀江氏は、大岡の文学的断章群が、大岡の仕事の柱の一つであり、様々なテキストを入れ込むことによって発酵させ、またそこから外に出していくための重要なホワイエ、あるいは庭のようなものではないかと考察した。物書きとして、大岡が自由に遊んでいるように見えながら、ある意味で最も真剣に取り組んだとても非常に重要な創作の場ではなかったかと指摘して講演を結んだ。
今回、大岡信の仕事における6冊の書籍による「文学的断章」が持つ意味と重要性を深く知ることとなった。
(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)