第二十六回大岡信研究会報告「データと言葉のあいだ:西垣通氏(情報学者、東大名誉教授)」

 第二十六回大岡信研究会は、情報学者で東京大学名誉教授の西垣通氏を迎え、前回と同じくズームと会場の並立で開催された。演題は「データと言葉のあいだ」。西垣氏の父は、詩人であり俳人でもあった西垣脩氏であり、大学の後輩でもあった大岡の芸術的資質を高く評価して明治大学に招くなど、深い交流があったという。父が亡くなった時の大岡の温かい人柄や、父の詩集の解説などに心を打たれ、氏も大岡と直接的な交流がはじまり、その後の仕事の上でも、恩人であったと冒頭に語った。
西垣氏が、日立の研究員等を経て、情報技術と文学のあいだを融合する学術的研究へと歩を進める中で、季刊誌『花神』第1号で大岡と対談したのをはじめ、『へるめす』への寄稿から『デジタル・ナルシス』(岩波書店)でサントリー学芸賞を受けるに至るまで、その仕事の背景には大岡の支えがあったと感謝の思いを吐露した。
講演は、AI(人口知能)の歴史や、AIによって生じる明と暗を、幅広い思想的見地から紹介した後、データ処理と創造活動という問題に移っていった。情報学者として芽生えた問題を考える上で、氏は、大岡の著書『肉眼の思想』の中のいくつかの論を考察し、大岡のことばを引きながら話を展開した。特に大岡が「肉体的なるものの復権」を主張したことや、「命名」という言語機能の回復を力説した箇所を紹介し、データの塊でしかないチャットGPTなどの機械的知性と、生命的価値を背景にした人間の芸術的創造との違いを中心に、大岡の詩「詩とは何か」にまで遡りながら、大岡の思考の営為を広く展望して語った。
AIで詩や俳句を作ることができるかと問われる現代において、肉体の復権を主張した大岡の思想は、本当の言語芸術を考える上で辿り直すべきものであり、この時代にこそ、大岡の仕事の意味が高まってくるであろうと感じた。まずは、『肉眼の思想』から読み直してみたいと思った。
(渡辺竜樹:大岡信研究会運営委員)

 

第十九回大岡信研究会『今日は俳句を読んでみよう~『折々のうた』の俳句を読む』講師:高柳克弘氏(俳人)

 第十九回目となる大岡信研究会は、前回に続きズームでの研究会となった。俳人の登壇は、第一回の長谷川櫂氏に次いで2人目。ともに『折々のうた』をテーマにした講演であったが、長谷川氏が『折々のうた』の大アンソロジーとしての歴史的意義を語ったのに対し、高柳氏は、『折々のうた』の鑑賞文にみられる大岡の独自性を探る内容であった。

大岡の文章は、鑑賞文としてあるべき要素が凝縮されていて、作者の来歴、句の意味する内容、ほかの作品との響き合いが、バランスよく配されている安定したテクストであることを氏はまず指摘した。その一方で、大岡の鑑賞文には、過剰で逸脱しているところもあり、そこが大岡の鑑賞文のおもしろさではないかと語り、具体的な例を紹介しながら読み解いていった。

松本たかしの句<金粉をこぼして火蛾やすさまじき>の鑑賞では、「焼かれつつ舞いつづける蛾」と表現している箇所に注目し、「舞い」という言葉をあえて入れたところに、能役者の家に生まれたという作者の来歴を知った上で鑑賞する大岡の特長と、過剰でやりすぎのところがある大岡ならではの表現がみられるとし、そこが氏にとっておもしろく、惹きつけられるところだという。また、かならずしも主題が同じとも言えないゲーテの詩「浄福的な憧れ」を響き合わせることで、死をもって生まれ変わろうとする煌きや力強さを想起させ、松本たかしの句意に膨らみが生まれることを指摘した。

野沢凡兆の<鶯や下駄の歯につく小田の土>では、「足をとられてつい舌打ちするような時」と対象に成り変ってしまう憑依的な大岡らしい表現が見られると指摘した。

詩人の感性で与謝蕪村を「創造的誤読」していた萩原朔太郎と同じように、大岡の『折々のうた』にもユニークな視点やときに「創造的誤読」が垣間見られ、それだからこそ価値があり、豊かさがあるのではないかと語った。

さらに氏は、大岡が俳句において何を大切にしていたのかを『折々のうた』の鑑賞文の行間から読み解いていった。氏によれば『折々のうた』の俳句鑑賞において、「転じる呼吸」や「一気呵成の言葉の力」など呼吸についての言及が多いことを指摘。大岡が、俳句の真の価値を「音韻」や「呼吸」に見出していたことを示唆するとともに、風格や品位など句がもっている格調の高さを重視していたことを推察した。

今回の講演では、俳人の視点から『折々のうた』に新しい光が当てられ、大岡の鑑賞文のもつ豊かさと、『折々のうた』の新しい読み方を知ることとなった。さっそく再読して大岡ならではの鑑賞を探ってみようと思った。

(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)

 

第十八回大岡信研究会「大岡信『文学的断章』をめぐって」講師:堀江敏幸氏(作家)

大岡信研究会は、新型コロナウイルス感染症の影響を受けて、5月に堀江敏幸氏を講師に迎え予定していた第十八回研究会を延期し、その再開を検討した結果、9月20日にズームを利用した研究会を成功裡に開催した。講師の堀江氏は、芥川賞はじめ多くの賞を受賞している作家であり、フランス文学者で、大岡信の『紀貫之』(ちくま文芸文庫)に解説を書かれている。堀江氏は、大岡が第二次『ユリイカ』創刊号(1969年7月号)から1979年5月号まで連載した「文学的断章」をまとめた6冊の書物(『彩耳記』、『狩月記』、『星客集』、『年魚集』、『逢花抄』、『宇滴集』)を取り上げた。「文学的断章」は、これまであまり論じられてこなかったので、今回の講演は大岡信の新たな側面に光を当てる絶好の機会となった。

堀江氏の大岡との出会いは、受験参考書などで大岡の文章に触れていたが、本格的に読むようになったのは「折々のうた」という。それを読むために、中日新聞に加えて朝日新聞を購読するよう家族会議を開いたという岐阜での高校時代、堀江氏は「折々のうた」に展開される、評論のようであり詩のようでもある、柔軟な流れや繋がりをもった書き方を読者として体験したと語った。

断章形式は、フランス文学においては、モンテーニュの『エセー』やパスカルの『パンセ』、ポール・ヴァレリーの『カイエ』、ジャン・グルニエ、アルベール・カミュ、ジョルジュ・ペロス、エミール・シオラン、ロラン・バルトなど多くの作家、詩人、哲学者によって書かれており、フランス文学において断章形式は伝統的であることを紹介し、大岡の先生である寺田透がポール・ヴァレリーの翻訳者であったことからも、大岡はヴァレリーに親しんでおり、断章形式は大岡にとって近しいものだったのではないかと推察した。

まず堀江氏は、各書籍の装丁を考察した。最初の『彩耳記』には、1972年版、1975年版、1979年版の3種類あることを画像で示しながら解説。それぞれの装丁および文字、行間等によって印象が異なることを指摘した。美術に関心の深い大岡が自ら装丁に携わったことは、大岡がどのようなかたちで本を読んでほしいかにも気にかけていたのではないかと推察し、内容と不可分のものとしてテキストの形式、書籍の外観というものに大岡が意識的であったことを指摘した。

また氏は、「文学的断章」連載中の1974年12月号から1976年4月号まで間があいていることに注目した。この中断は1975年1月から1976年12月まで朝日新聞の「文芸時評」を担当することになったためであった。そして大岡の「文芸時評」は、一つの文学作品を取り上げるというより、書き方あるいはテーマを決めてまとめていくという方法を取った、いわば断章であり、ユリイカの「文学的断章」の書き方に非常に影響を受けているとする興味深い指摘があった。

また、「文学的断章」の連載が続いていくにつれ、書き方が変化していくことにも注目する。初期には、アフォリズムのような鋭い断片が並んでいることが多かったが、シリーズが進んでいくにつれて、日記や身辺雑記、若い頃に訳した詩の断片や他者のテキスト、新聞記事の引用、全集の推薦文、追悼文、季節に合ったネタなど、非常に多彩で自由な器になってくると指摘した。時間が輻輳し、短い断章が伸び縮みし、何か見えない蔦のようなものが絡みあい、どんどん育っていくようなかたちになっていくという。

また、大岡が、これらの断章群を書き継ぐ中から、断片と断片のあいだに「波動」が生じ、さらに「うつろい」が生まれるなど、いろいろなものを「合わせ」ながら、長く書き続けることでしか出てこない運動性を予感していたのではないかと、「文学的断章」で引用されたエリック・ギルの『衣裳論』やジャコメッティに関する大岡のテキスト等を読み解きながら指摘した。

堀江氏は、大岡の文学的断章群が、大岡の仕事の柱の一つであり、様々なテキストを入れ込むことによって発酵させ、またそこから外に出していくための重要なホワイエ、あるいは庭のようなものではないかと考察した。物書きとして、大岡が自由に遊んでいるように見えながら、ある意味で最も真剣に取り組んだとても非常に重要な創作の場ではなかったかと指摘して講演を結んだ。

今回、大岡信の仕事における6冊の書籍による「文学的断章」が持つ意味と重要性を深く知ることとなった。

(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)

 

第十七回研究会報告:『大岡信と花神社』講師:大久保憲一(元花神社社長)、聞き手:西川敏晴(大岡信研究会会長)

今回の大岡信研究会は、長年、編集者として大岡と交流のあった元花神社社長・大久保憲一氏が登壇した。冒頭、聞き手である西川会長から、1050冊の本を世に送り出し45年の歴史に幕をおろした花神社(2019年12月閉社)の歴史を記録しておくことの意義が語られた。

まず、1974年に花神社を設立するまでの前史を西川会長は質問し、大久保氏は山梨シルクセンター出版部での編集者時代のことから話し始め、そこで大岡とのはじめての出会いが語られた。1969年頃、大久保氏は、女性の詩人の詩集シリーズは売れる、と考えて、叢書の企画をあたためていたという。当時出ていた『大岡信詩集』や『現代詩人論』をちらっとみて、この人はすごい人じゃないかと思い、大岡に解説をお願いしたのが出会いという。後に大岡の解説をつけて「現代女性詩人叢書」として15人の詩集を世に送り出した。あらかじめ17人の候補者を用意して、10人の詩人を選んでもらおうと大岡に依頼したが、「選ぶのは無理だ」と断られたという。その後、山梨シルクセンター出版部を辞めて独立を考えたとき、大岡が「好きなことをやればいいじゃん」と背中を押してくれたという。1974年10月に「花神社」創立。社名には、芸術を花とし、それに大岡信から信を採って「花信社」と、当時流行っていた司馬遼太郎の小説『花神』から「花神社」という案があったが、結局、大岡に相談して「花神社」に決定したという。

花神社として初めて作った大岡の本は、珍しく大岡が装丁をおこなった1975年『本が書架を歩みでるとき』で朝日新聞の書評欄の文章などを収録したもの。この書評の終わりの二行の文章の妙に惹かれていたという。1976年『子規・虚子』を経て、1978年『ことばの力』、1980年『詩とことば』、1982年『詩の思想』の3部作。その他『人麻呂の灰』、『楸邨・龍太』と続き、『故郷の水へのメッセージ』ではじめて大岡の詩集を作り、現代詩花椿賞に輝いた。

大岡の、言葉の意味に対する深い知識や単語の選び方に、大久保氏自身、驚くとともに影響を受けたことも語った。ルビを勝手にはずしたことを大岡に怒られたという編集者ならではのエピソードの紹介もあり、大岡がいかに読者のことをよく考えていたかがわかった。

大岡は人に対する思いの深い詩を書く人だったという大久保氏は、なかでも『捧げるうた50篇』が最も大岡の特質が出ている詩集であると推す。

途中、大久保氏と交流のあった詩人・茨木のり子などにも触れ、有名な「自分の感受性くらい」という詩が、はじめは「自分の感受性ぐらい」であったが、大久保氏が語感と字面から、「くらい」を提案して、詩人も納得され元の詩も修正したという興味深い話も披露された。

会員の奈良禎子さんにより、大久保氏がかかわった茨木のり子の詩篇と、大久保氏が好きな大岡の詩「三島町奈良橋回想」が朗読された。

聞き手の西川会長が、大切なものとして大岡が晩年に書いてくれた署名本を紹介すると、大久保氏も大岡からの葉書を紹介した。大岡が好きだったマリリン・モンローにちなんだ「マリリンメルロー」というワインを受け取ったお礼状で、蔵書の整理を依頼する文言も書かれており、公私にわたる交流の一端を知ることができた。

話題は、1987年に創刊された雑誌『花神』や、大久保氏が事務局長として関わった2002年から7年間続いた大岡フォーラムのことにも広がった。

最後に、会場のかね子夫人から、大久保氏が「現代女性詩人叢書」の解説を南画廊にいる大岡に依頼しに来たとき、「あんまり何も知らないので、引き受けちゃったよ」と大岡が言っていたという愉快なエピソードが語られた。また、大岡の実生活を支えたかね子夫人から、大岡の仕事を支えた大久保氏への心のこもった感謝の言葉があり、参加者は、このように温かな人たちに囲まれて大岡信の文筆生活は営まれていたのだと改めて気づかされた。大岡に伴走した編集者からの視点は、今後、大岡信を研究する人にとっても刺激的なものであると感じた。

(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)

 

第十六回研究会報告:『詩と世界の間で~大岡信と過ごした67年~』谷川俊太郎(詩人)・聞き手:赤田康和(朝日新聞記者)

大岡信の盟友である詩人・谷川俊太郎氏が登壇した今回の研究会は、大岡死去のあと公の場で谷川氏が大岡信についてまとまって語るのは初めてとあって、研究会としては最も多い参加者があった。氏に話を聞くのは朝日新聞で詩の連載を受け持つ赤田康和記者。

はじめに、大岡信が亡くなって6日後に朝日新聞に発表した追悼の詩「大岡信を送る 二〇一七年卯月」を谷川氏自身が朗読した。普段日付を書くことのない氏が、「卯月」と記したのは喪失の悲しみからくる「うずき」と重ねていたからだという。インタビュアー赤田氏は、大岡との思い出にさかのぼって尋ねていった。大岡信に最初出会ったのは「詩学」誌の座談会のときという谷川氏は、大岡は暗く無口という印象を持ったが、後年はよくしゃべり社交的になり、読売新聞外報部の敏腕記者というイメージももっていたという。大岡との違いについて氏は、「大岡は酒を飲んで酔っ払うのが好きなんですよ。僕は酒を飲まない。ここが簡単な違いのようでいて、書くものや生き方にも関係しているとずっと思っていたんです」と語った。大量の散文を書ける人だから大岡を左脳的な人だと思っている人が多いが、実際は谷川氏の方が左脳的で大岡は右脳的だと三浦雅士氏からいわれたことに共感を覚えたという。大岡は底が抜けているようで野生的なところ、言葉と肉体的に一体化しているところがあり、「大岡の言葉っていうのは彼の体から出てきている」という興味深い指摘があった。視覚的な大岡と聴覚的な谷川、時間的な大岡と空間的な谷川、アタッチメントとしての大岡とデタッチメントとしての谷川という三浦氏の分析にも谷川氏は共感した。大岡の批評性を示すエピソードとして、若いころ大岡が氏に対して「現実とカミソリ一枚分だけ切れている」という言ったことが5、60代になってはたと腑に落ちたという。「彼は若い時からぱっと見抜けちゃう人だったんだなと感心したんです」という谷川氏の大岡評は印象的だった。

次に、『悲歌と祝祷』(1976年)所収の大岡の詩「初秋午前五時白い器の前にたたずみ谷川俊太郎を思つてうたふ述懐の唄」の朗読があった。この詩に大岡の「批評」を感じたという。続いて、長い年月ののちこの詩に呼応して書かれた氏の詩「微醺をおびて」を本人が朗読した。また、かつてマリリン・モンローについて書いた大岡・谷川両氏の詩の紹介もあり、谷川氏の「Ode マリリン・モンローに」は本人が、大岡の「マリリン」は研究会会員の奈良禎子氏が朗読した。資料として配布された大岡の詩「さわる」「わたしは月にはいかないだろう」「地名論」「小雪回想集」の魅力について一篇ずつ谷川氏がコメントした。

現代詩のなかに古典との接続を試みた大岡の仕事についても触れられ、朝日新聞に長期間連載された「折々のうた」についての谷川氏の見解が語られた。氏は当初、「折々のうた」は、選び抜かれた近現代詩のアンソロジーをつくるだろうと思っていたが、長期になるにつれてはっきりしたかたちでないアンソロジーとなってきたことに慣れず、自分の中で整理できなかったが、この連載を「流れ」として詩をとらえていくものと見定めると、次第に読むのが楽しくなったという。

「ぼくにとっては兄貴分。ずっと頼りにしていた」と語る大岡信との67年の交流を振り返り、大岡の作品と大岡信という人間の魅力を語った。「大岡がいないのはつまらない」というなにげない氏のことばに、「何を語るにも安心感があった」という日本現代詩の両巨頭の深い交流を窺い知ることができた。最後に、氏が大岡の著書『日本詩歌の特質』(花神社)を推奨していたことも付け加えたい。(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)

 

第十五回研究会報告:『大岡信と恋、岡野弘彦さんに聴く』岡野弘彦(歌人)・聞き手長谷川櫂(俳人)

令和元年5月26日(日)、「大岡信と恋、岡野弘彦さんに聴く」と題して、インタビュー形式のはじめての研究会を行った。

岡野氏が大岡信と最初に出会ったのは、折口信夫の没後、折口記念会が出来て、釈迢空の詩について大岡に講演を依頼した機会だったという。大岡の伸びやかな表現は若い頃から心の憧れだったという岡野氏は、講演を引き受けた若き大岡の率直な姿に惹かれたという。「話をしなければならないと思うと緊張してお腹が痛くなっちゃうんだよね、岡野さん」と言いながら大岡は、瑞々しい詩人・釈迢空論を2回講演したとのこと。この講演は、まだ活字になっていないという研究会にとって興味深い話も聞けた。

次の出会いは、平成8年から始まった若山牧水賞の選考委員を大岡と一緒に務めた時。その折に大岡から、「岡野さん、あんな歌詠んでいてよく教壇に立てるねえ」と言われたのを叱られたと思った岡野氏は、同じ選考委員の馬場あき子氏に話したら、「あれは短歌に表現された熱い想いに共感しているのよ「」と言われたエピソードを披露した。大岡がこのときに念頭にあったのは、岡野氏の〈黒髪を手にたぐりよせ愛しさの声放つまでしひたげやまず〉(『滄浪歌』)のような激しい歌であったのではと長谷川櫂氏が指摘。その後、自由詩と定型詩の違いにまで話題は広がった。牧水賞が行われる宮崎での滞在中、一緒に風光を楽しんでいたとともに、大岡は毎回用意されるワインを楽しみにしていたという。

インタビューは、歌仙の話に。『歌仙』(昭和56年)に収録されている「新酒の巻」「鳥の道の巻」で大岡の付句や、岡野氏、大岡信、丸谷才一と三人で巻いた「YS機の巻」(『歌仙の愉しみ』(平成20年)所収)などを紹介しながら、歌仙での大岡とのやりとりを、長谷川氏が読み解いていった。

「合わせる」という原理を適用すると歌仙あるいは連詩になり、それを人間の男女の問題で捉えなおすと「恋」となり、その文学上の「恋」に大岡は熱心に取り組んでいたことを長谷川櫂氏は強調した。大岡が連句において「恋」というものを表現するときに、はぐらかすようなところがあるのではという長谷川氏からの興味深い指摘があった。

平成16年に大岡が宮中歌会始の召人を務めたときの詠進歌〈いとけなき日のマドンナの幸ちゃんも孫三たりとぞeメイル来る〉を紹介。この歌においても、大岡が恋というものをどのように考えていたかがわかるという。

岡野氏は、大岡らしい抒情詩の美しい表現が短歌のかたちで出てくると思っていたが、発表された歌をみて、このスタイルで出されたかと驚いたという。宮中歌会始は伝統的なかたちがあって切り崩すのは大変であるが、現代の恋を堂々と詠んだ大岡の歌は、歌会始に新風を吹き込んだと岡野氏は語った。

終盤に、岡野氏が若い頃に宝物のように読んでいたという大岡の初期の純真な抒情詩(「明るくて寂しい人に」「地下水のように」)を味わうとともに、詩集『春 少女に』から「光のくだもの」「春 少女に」などの詩を皆で鑑賞した。この2篇の詩には、前者には大岡の妻に対する、後者には大岡の娘に対する「恋」というものの表現があり、こういう詩が並んでいるところに、大岡の恋というものに対する考え方が現れているのではないかという長谷川氏の指摘がおもしろかった。

大岡が恋というものをどのように捉えていたかを、初期の詩から晩年の歌仙までを見渡して、歌人と俳人が語り合った。実に豊かな「うたげ」の時間であった。

(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)

 

第十四回研究会報告:『身にしむ色』小島ゆかり(歌人)

平成31年1月27日(日)、明治大学で開かれた第14回の大岡信研究会は、歌人の小島ゆかり氏が講演した。

大岡信の仕事の柱の一つに古典詩歌論があり、歌人としてその仕事に興味があったという小島氏は、色彩を通して日本の詩歌の本質を見出していった大岡の論を引きながら、「身にしむ色」を中心テーマに、配布されたレジュメに示された和歌・短歌を一首ずつ辿った。

はじめに、今回の研究会が開かれた1月にふさわしい和歌の紹介から始まり、大伴家持やユーモアあふれる長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌などを読んでいった。大岡は万葉集の中でもナンセンスな歌が多く収められた巻16を愛していたとのこと。

本題の「身にしむ色」では、紀友則、藤原俊成、そして定家の歌を引きながら、「身にしむ色」という日本独特の「色」を見出していった和歌の流れを、研究会の皆で繙いていった。

また、後半の現代短歌の紹介においては、若山牧水賞を受賞した河野裕子の歌集『歩く』の中の〈さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり〉という歌に対する大岡の選評が紹介され、この歌に定家の幽玄体のような伝統的な和歌のかたちがあると同時にしみじみとした感じがあるとし、短歌が持つもっとも大切な感情である「しみじみとする」ということが近年忘れられていないだろうかと大岡が指摘したことに、氏は、目をひらかされる思いがしたという。

最後に、小島氏の歌〈はるかなる波動を聴かんいまごろは春毛ととのふ屋久鹿のむれ〉(『六六魚』)を解説し、この歌の発想のもとには、大岡の詩「豊饒記」があり、人間は波動するものであるとした大岡の発想は、福岡伸一の『動的平衡』の30年も前にすでに同様のことを言っていたのだと感心したと語った。

色ということを注目して詩歌の歴史を究明していった大岡の論の鮮やかさが、小島氏の短歌実作者の視点から明らかにされていった。

(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)

第十二回研究会:「古典詩歌と現代詩の対話」蜂飼耳(詩人)

平成30年5月27日(日)、明治大学で開かれた第12回の大岡信研究会は、詩人の蜂飼耳氏が講演した。学生時代に教科書で大岡の詩「春のために」(『記憶と現在』所収)に出会い、そのなかの〈しぶきをあげて廻転する金の太陽〉という詩句に強い印象を受けた蜂飼氏は、高校生のころ、同時代ライブラリーとして再刊された『うたげと孤心』に遭遇し、大岡の評論と本格的な出会いを経験する。通学途中の書店で偶然手にしたその本の、とりわけ後白河法皇と今様についてのいきいきとした大岡の文章に驚いたという。その文章は柔らかで温かく、平明であることによって、高校生の蜂飼氏に深く届くものであったと語る。『紀貫之』など、これまで光をあてられていなかったものに光をあてようとする評論や、大岡自ら詩の実作者として、母語としての日本語の豊かな宝を古典詩歌の中にも見出していこうとする大きな仕事の反映によって、蜂飼氏の時代においては、当時大岡が「日本回帰」などと言われた時代とは異なり、古典文学は積極的に触れてゆくべきだという環境が整っていたという。これも大岡が展開した仕事の存在があってこそ、と推測する。

講演は、資料に掲載された『うたげと孤心』の文章を紹介しながら、大岡が時間や空間を超えて、まるで同じ時代にいるように後白河法皇に共鳴していく姿に触れ、対象を自分の中に一度入れてから評論していく大岡の体質について言及があった。また、『折々のうた』については、引用されている詩句だけではなく、並べ方も評釈そのものも大岡の「詩」であるとし、『折々のうた』そのものが「詩集」であると近年考えているという興味深いお話もあった。

「水底吹笛」を朗読して講演を終えたのち、大岡の作品と古典詩歌の関連について問う大学生からの質問にも、大学で教えている立場からの的確なアドバイスで答える様子に、参加者は感心し、感銘した研究会となった。(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)

第十回研究会:「大岡信 連句・連詩の精神」高橋順子(詩人)

平成29年9月18日(月・敬老の日)、明治大学で開かれた第10回の大岡信研究会は、詩人の高橋順子氏が講演した。30代のころ、『ユリイカ』や『現代思想』を出している青土社に勤めていた氏は、『大岡信著作集』全15巻を担当し、編集者として身近に接してきたという。

冒頭に、三島の大岡信ことば館で開催中の追悼特別展に触れ、「詩なら詩、評論なら評論と、大岡さんの仕事は高い山をなしていて、ずっと尾根歩きをしてきたことがわかった」と述べ、なぜこうなのかという問いを、歴史や社会、当時の人間関係、学問などを頭に置いて追及し、作家の個性を云々するにとどまらず、それを育んできたものをみようとする大岡の仕事に改めて感慨を深めたという。また、6月のお別れ会については、まるで「芸術祭」のようだったと、大岡の幅広い業績を偲んだ。

氏は大岡との関わりのなかで、詩についての考え方や文章の書き方で大きな影響を受けたという。「な」を一筆書きする癖まで影響されたそうだ。1977年に高橋氏の初めての詩集『海まで』が出たときに、大岡が十何人かの詩人を集めて出版記念会を開いてくれた思い出もあるという。大岡信や安東次男らが再燃させた連句熱を浴び、大岡を追うかたちで連句に惹かれた氏は、のちに『連句のたのしみ』という著書を持つまでになる。

講演では、懐紙の見本を披露しながら連句の特長を紹介した。フィクションゆえに自由で自在なこと。応酬の楽しさ。批評の緊張感。そもそも連句を行うことは、ことばが持つ深さに触れることであると。大岡は遊ばない人であったけれども、連句のような高等遊戯は大いに遊んだ人であったとも指摘した。

氏は、実験中の文芸であるといえる連詩の問題点、たとえば、定まった型がないことや、当事者だけがおもしろく、読む人はおもしろくない実情を鑑みて、読者もおもしろくなるにはどうしたらよいかと考えることが「大岡さんからもらった宿題」のように思われるという。連詩では1993年のベルリン、2000年のロッテルダムに大岡と共に参加し、詩朗読で1993年にフランス・ヴァルドマルヌ国際詩人ビエンナーレに参加したという。最初の連詩のとき、大岡に出来るかどうか心配ですと洩らすと、大丈夫だよ、と背中をドンと叩いてくれたことでやれる気になったという思い出や、滞独中に大岡の母親が亡くなったにもかかわらず、ほかの人のことを考えて連詩制作が終わるまで皆に黙っていた姿を紹介した。ホテルの寒さのために脳梗塞をおこした1993年11月のフランスの朗読会の様子なども語った。

講演では、大岡信、丸谷才一、岡野弘彦が巻いた三吟歌仙「果樹園の巻」や、ロッテルダムでの連詩「奥深いチーズの味の巻」(単行本未収録)のテキストを紹介して、大岡の連句と連詩の実作を辿った。「大岡さんの素晴らしいところは、連句を楽しむだけでなくて、日本の文学を考察する糸口にしてしまったこと」にあり、たえず私はなぜこんなことを楽しめるのかという分析を行い、分析だけでなくそれに付け加えられるべき可能性、「連詩」を考えることに至ったという。日本発にして世界を巻き込む熱い詩精神がどのように育まれていったかを、高橋氏は我々に示してくれた。(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)

第九回研究会:「大岡信と夏目漱石」松下浩幸(明治大学教授)

4月5日に大岡信が亡くなってから最初の研究会となったこの日、明治大学教授の松下浩幸氏が「大岡信と夏目漱石」という演題で講演を行った。夏目漱石の研究で多くの業績がある松下氏は、明治大学大学院時代に大岡の授業を受けていたという。昭和40年に大岡が明治大学に着任した頃から退任直前までの大学便覧や講義要項を紹介しながら、大学教員としての大岡信の変遷をたどった。教員に割り振られる役職には学生相談員もあり、大岡も相談員であった時期があり、学生のカウンセリングに応じていたかもしれないという、今思えば驚くべき事実も紹介した。 話しは昭和27、8年頃の大岡が在学していた東京大学国文科の様子に遡っていった。その当時、教授陣に近代文学を担当する先生がほとんどいない中で、夏目漱石を卒業論文のテーマにすることがいかに珍しいことかと指摘。サンフランシスコ講和条約の時代で、日本とは何かを問うような古典流行の時代下において、大岡はなぜ夏目漱石を選んだか。この大きな問いに対して、松下氏は、大岡の中に、政治よりも自分自身に向き合って解決しなければならないものがあったのではないか、「自信過剰の自信喪失」の時期において、そういう自分をどうやって処理するのかという抜き差しならぬ思いが卒業論文に漱石を選んだ強い動機になっているのではないか、と指摘した。 講演は、大岡の漱石論の中心テーマである「則天去私」神話への批判や散文精神のことに触れながら、修善寺大患以降の漱石作品に惹かれた大岡の論考を紹介していった。江藤淳の漱石論との示唆に富む比較もあり、大岡の漱石論が江藤のそれよりも前に世に出ていたら、その後の漱石研究の風景が違っていたとも語った。「大岡にとっての漱石論は、青年大岡信の自己再生の物語ではないか」という氏の指摘は、この卒論が、その後膨大な仕事を成し遂げる大岡の立脚点であったことを教えてくれた。若き大岡信の思いを知る講演だった。  (渡辺竜樹:大岡信研究会会員)

第八回研究会:「大岡信と「櫂」-その頃とそれから」三浦雅士(文芸評論家、芸術院会員)

2017年1月29日、文芸評論家で日本芸術院会員の三浦雅士氏による『大岡信と「櫂」―その頃とそれから―』と題する講演に、大勢の聴衆が参加し、質疑応答も活発な盛会となった。
1969年頃『ユリイカ』の編集に携わるようになった三浦氏が初めて会った大岡は、すでに大きい存在だったが、時間が経るにつれ「山並みの中で、大岡さんは相当に大きい山」であることがわかってきたという。
若き大岡が、卒業論文としては実に本質的で十分文壇でも通じる夏目漱石論を書き上げていたにもかかわらず世に発表しなかったことや、当時の風潮では取り上げること自体避けるような保田與重郎について大岡が評論を発表したこと、これを文壇のスターだった三島由紀夫が激賞したのだが、大岡は特段喜んで三島に近づくこともなかったことを例に挙げ、大岡が、小説・批評を中心としたいわゆる「文壇」にあえて接近しなかった背景には、なによりも「詩」を第一とする大岡の考えが読み取れると指摘した。そこには、短期の風潮で動く「文壇」から遠く離れ、大きな流れの中でものごとを捉える大岡の特長がみえるという。この視点の距離感、大きさは、紀貫之や藤原定家らの作品の捉え方、また萩原朔太郎論の中においても明らかであるという。
大岡が加わった詩のグループ『櫂』は、メンバー自身も語っているように、仲良しクラブのようで、ぼわっとした感じのせいか、戦後詩史においては、先鋭でスターが揃う『鰐』のグループほど重要でないかように認識されているが、『櫂』のほうが実は圧倒的に重要なグループであることがわかってきたという。大きなタイムスケールの中で「詩」を捉え得る大岡を迎えた『櫂』は、大岡が安東次男、丸谷才一と一緒に巻いていた歌仙に刺激され、1971年に「連詩」を始めた。この『櫂・連詩』こそ、日本文学において非常に重要である「合わす心」ということを「詩」において試みた最初であり、日本語がどのようなもので、日本文学における最大の形式としての五七五七七が、どういう意味を持つか、ということに関しても、実感的に深いことを行った類のないグループであったという。この試みも、日本文学の大きなうねりの中で現在の「詩」を考察する大岡の「捌き」があってこそであったと三浦氏は指摘した。
資料として配布された『櫂・連詩』の「第三回珊瑚樹の巻」、「第六回夢灼けの巻」に触れながら、氏は、その中で行われた詩行の実験や、合わせていくプロセスで一層露わに出てくるそれぞれの個性を紹介しながら、(例えば茨木や吉野のわかりやすさはその理屈からくること、谷川の理性や大岡の直感など)、『櫂』の文学史上の意義について言及していった。
また三浦氏は、人間の重要なことは、「人柄がいい」ということが一番であり、それが文学の根本なんだということをはっきりと確信していたのが大岡信だと指摘。それが『櫂』の原理であり、『櫂・連詩』が出来た前提であると分析した。
三浦氏のテンポのよい語り口と、エピソードを交えた多彩な分析に、新たな大岡像が摘出され、あっという間の1時間半であった。(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)

第七回研究会:「大岡信さんと私ー二つの言語を通してー「折々のうた」の英訳」ジャニーン・バイチマン

bichiman第七回大岡信研究会は、講師にドナルド・キーン氏の愛弟子であり、正岡子規、与謝野晶子など日本の近代詩歌の研究で著名なジャニーン・バイチマン氏を迎えて行われた。
バイチマン作新作能Drifting Fires を大岡信が「漂炎」に和訳するなど二人のさまざまな交流の中から、講演は「折々のうた」の英訳を中心に進められた。まず、大岡信の詩への姿勢を示すものとして、バイチマン氏は、配布資料の冒頭に、第五回講師の八木忠栄氏が引用した「泥について」(「文明のなかの詩と芸術」思潮社1966年)の最後部分「・・・いつでも泥みたいに不定形でありたい。直立不動の姿勢は真平だ。」を揚げた。また、「折々のうた」(岩波新書版1980年)のあとがきを引用し「私は古今の詩句を借りてそれをあらゆるやかな連結方法によってつなぎとめながら、全体として一枚の大きな言葉の織物ができるように、それらを編んでみたいと思ったのである。」という大岡信の壮大な展望を改めて喚起させた。
「折々のうた」の英訳は、朝日新聞の英字紙Asahi Evening Newsに、 A Poet’s Notebookと題して掲載されて始まったという。当時のコラム内の構成は、ローマ字でフリガナがつけられた日本語詩歌が中央に、バイチマン氏の英訳が左に、そして大岡信の文章の英訳が右に掲載されていた。英訳するにあたって、二人の間で頻繁にファックスのやりとりがあった。そのコピーがスクリーンに示され、大岡が語順の変更を提案する添え書きや、バイチマン氏の英訳を讃えた勢いある筆跡など生き生きとしたコミュニケーションが見られたのも興味深かった。
相良宏の短歌「白壁を隔てて病めるをとめらの或る時は脈をとりあふ声す」(1992年7月12日掲載)を採りあげ、バイチマン氏が「をとめ」をどう訳すかに悩み、日本人の夫君や当時中学生の娘さんの意見も聞いて、最終的に「病めるをとめら」はthe feverish virginsとしたエピソードが語られた。氏は、翻訳は決して一人だけでするものではなく、いろいろな意見を聞いたり、取り入れたりすることで、より良い翻訳が可能になると強調した。
この英字新聞掲載の英訳をとりまとめて、1994年5月にA Poet’s Anthology The Range of Japanese Poetry (序文ドナルド・キーン氏)がトマス・フィッツシモンズ氏(詩人、大岡信と連詩「揺れる鏡の夜明け」を刊行)により発行された。この時、フィッツシモンズ氏から「季節ごとに詩歌を整理する必要はないか」との問い合わせに、大岡は「ノー」と極めて強い調子で回答した・・というのも、その理由には、「不定形の泥」も思い起こされるなど、いろいろ考えさせられる興味深い話だろう。
講演で、思いがけない贈り物は、バイチマン氏が英字紙に掲載された「折々のうた」から十三の日本語の詩歌とその英訳を朗読したことである。日本語、英語のいずれも美しい発音と調べで朗誦され、参加者を魅了した。朗読の途中、翻訳の苦心談も語られたが、中でも、蕪村の「月天心貧しき町を通りけり」の「貧しき町」をどう訳すか・・と考えていた時、「ゲットー」という言葉を思いついたという。翻訳の際、元の言語の背景を大事にするかあるいは英語圏あるいは西洋文化に則した言葉を使うかとの選択は、難しく、思案のしどころ・・とバイチマン氏は述べたが、この「ゲットー・ストリート」により、蕪村の俳句は、確かに地球的空間と時間を持ったといえるだろう。参加者は、平安時代から現代までの幅広い日本詩歌の英語訳を、翻訳者から直に聴くという経験によって、韻、リフレイン、表記方法など、詩のさまざまな要素が呼び起こされて、楽しく魅力的な研究会が実現された。(越智淳子:大岡信研究会運営委員)

第六回研究会:詩篇「告知」をめぐって―大岡信における想像力と批評 野村喜和夫(詩人)

nomura現代詩の最先端を走りつづけている詩人・野村喜和夫氏を講師に迎えて行われた第6回大岡信研究会は、大岡の詩篇「告知」が1972年に発表されるまでの経緯を軸に進められた。それはあたかも詩人と批評家という一人二役をめまぐるしく演じさせつつすすむエクリチュールの劇を観るようだという野村氏は、その劇の真ん中に位置するエッセイ「言葉の出現」のテキストを辿りながら、その言語活動の劇にあらわれる詩生成の過程を我々に開示していった。それは、先に批評家としての看板を負わされてしまった大岡の詩人としての立ち位置を示す試みでもあった。
野村氏は、1966年に発表された詩作品「わが夜のいきものたち」は体裁を整えた表層のあらわれであり(むしろ批評家としての仕事)、1968年のエッセイ「言葉の出現」は深層と表層の分析であるとする(むしろ詩人としての仕事)。このエッセイは途轍もない大きな問題を扱っている重要なエッセイであるとし、自分を実験台にして言語問題を提示したのではないかと指摘。
また、1972年の作品「告知」は言葉にならないカオスとでもいえる深層のあらわれであるとし(大岡の造語である「幻語」)、表層よりも深層の方が勝っているということを「告知」したのではないかとの推論を披露した。自分の詩作を実験台にすることは勇気がいることなので、こうしたことが出来たのも韜晦しない大岡の率直な人となりがその背景にあったのでないかとも指摘。
さらに、このエッセイで援用されるシニフィアン、シニフィエの概念は、ソシュール言語学が一般的に論じられるのが80年代であることを考えると時期的に非常に早いことに注目し、大岡の先見性を読みとった。
作品の<生成>を示した大岡信「言葉の出現」と、作品の<構造>を示した入沢康夫『わが出雲 わが鎮魂』が同じ1968年に発表されたことのシンクロは、戦後現代詩のもっともスリリングな場面といえるのではないかと言及して、評価の高い入沢作品に並ぶ重要な作品として、詩人・大岡信の新たな位置づけを行った示唆に富む講演であった。(渡辺竜樹会会員)

第五回研究会「大岡信から学んだもの」八木忠栄(詩人、俳人、元現代詩手帖編集長)

DSCF9394第五回大岡信研究会は、1月31日、元『現代詩手帖』編集長で詩人・俳人の八木忠栄氏が「大岡信から学んだもの」と題して講演した。
氏は、11年間の編集者生活において、大岡との交流から学んだこと、同じ詩人として感じたことなど、多くのエピソードを、ユーモアを交えながら語った。
大岡本人に出会う前に、氏はまず大岡作品に出会った。最初は、1960年に出版された『大岡信詩集』(書肆ユリイカ)。まぶしそうで憂いがあるような著者の肖像写真にも惹かれたという。次に1964年ごろ現代詩の雑誌に掲載されていた大岡の「泥について」という文章。これに「まいってしまった」という。その後、1965年7月に思潮社に入社し編集者として大岡信に出会った。1966年1月号から現代詩手帖の編集を行うようになり、「わが夜のいきものたち」や「地名論」など大岡詩の傑作の誕生に立ち会うことになる。詩「地名論」が生まれるまでのエピソードが殊におもしろい。この頃、大岡は明治大学で教鞭を取っており、詩を依頼した時期がちょうど入試時期にかかり、大変な忙しさで、大岡が締切に気が付いた時は、その前夜だったという。大岡が徹夜で仕上げた原稿をみて、午前3時に起きて水道管を捻った時にふと出てきた言葉を書いてこんな素晴らしい詩ができるのか、と驚嘆したという。明治大学大学院の建物内で原稿をもらった時、「君はひでえや」と言われたが、「こういうちょっと荒っぽい言葉づかいをする大岡さんが大好き」と語った。編集者にとっては、大岡は、守備範囲が広く懐が深いので、座談会、対談、インタビューなど、どの面においても、安心してお願いできる人であり、また大岡の談話は、テープを起こしたらそのまま原稿になる話しぶりであったという。氏が大岡に怒られた時の思い出も語られ、しかし、大岡の「怒ってもあとにひかない」人柄が紹介された。
「もっと甘えればよかったなあ」と悔やむ氏の姿に、中心軸に大岡がいた時代に詩誌編集に携わったことの幸せと、「大岡信」という類稀なる人物にめぐりあったことの大きさが滲んでいた。
講演の最後に、1981年に自らカメラを回して撮影した詩人たちの姿を上映して、詩の熱い時代を回顧した。(渡辺竜樹)

第四回研究会「大岡信の社会学」土屋恵一郎(明治大学法学部教授)

第四回大岡信研究会は、9月27日、明治大学法学部教授の土屋恵一郎氏が「大岡信の社会学」と題した講演をした。冒頭、西川会長から「土屋先生は、大岡信明治大学教授の教え子であり、生粋の江戸っ子、専門は法哲学ですが、能楽の著作やプロユーサーとしてもたいへん有名な方です」と紹介があった。
土屋氏は、「かね子夫人作の能の上演の手伝いをした時に、大岡信先生とも親しくなった。当時(1960年代後半)の大岡信は、35~36歳で、たいへん美少年であった」と笑いとともに講演は始まった。「詩人大岡信は、批評家でもあり、直接の社会のついての発言は抑制されていても、そこには、現実への批評が常にある。この日は、大岡信の著作『うたげと孤心』を中心に、文芸の問題から社会の問題へ至る、魅力ある持論を展開した。
日本の詩歌あるいはひろく文芸全般、さらには諸芸道に至るまで、ある種の「合す」原理が強く働いていることに、大岡信はフォーカスを当てた。たとえば、懸詞や縁語のような単純な要素から本歌取りまで、短連歌から長大な連歌、俳諧まで、或いは謡曲の詞章に、佳句名文に至るまで、一様に「合す」原理の強力な働きを見出すことができる。これを制作の場についていえば、協調と競争の両面性をもった円居、宴の場での「合せ」というものが、「歌合」において典型的にみられるような形で、我々の文芸意識をたえず支配してきた。
すなわち、大岡信は、集団で人びとが「合す」ことと「競う」ことが日本の芸道にあると。個人としてではなく、〝座(グループ)〟として、四座として競うことで興行を重ねた〝能〟では、「立合い」ということを世阿弥がよく述べているが、勝たねば生き残れない興行の競い合いのなかで、どのようにして勝つかの戦略が必要であり、それを「風姿花伝」として残した。香道や華道も同じ、花=花瓶を競いあうことだった。
方法論としての「合せ」は、国際的にも展開し、メキシコの詩人(ノーベル文学賞受賞者)オクタヴィオ・パスらが共同制作を試みた。日本人は“同質なものが良い”と考えがちだが、日本の芸道は異質な声の競い合いであったことを、大岡信とオクタヴィオ・パスが甦らせてくれたと言える。
このあと、さらに能楽をはじめとする芸道、古典文学に関わる数多くの具体例とともに、講演は続いた。「中心は一つではなく、たくさんの中心がある。日本の芸道はひとりの孤独な人間がいて、寄り合って、集団で、動く中心のなかで、異質な声を寄りあわせて芸術作品を表現できる人間によって荷われてきた」と。
講演の最後では、大岡信の詩集『旅みやげ にしひがし』から「延時イエンシーさんの上海」を取り上げ、「旅もまた、文人たちにとっては、『うたげ』の一種であった。歌枕を探り、古人の跡を追って旅すること自体が、いわば抽象的な『名』や『死者』と本人とのあいだに『ことば』をなかだちにして成り立つ『うたげ』の追求に他ならなかった」とし、詩人・大岡信は死んでいった者たちとも『連なる』ことで、うたげと孤心を実践した。そしてさらに、「詩は個人の歌であると同時に、出会った者たちと旅する(=うたげする)、心を通わせることができるものだ」と結んだ。刺激的な内容あふれる研究会であった。
(鈴木恵治記=研究会会員)

第三回研究会「大岡信と西洋文化-翻訳、旅、人との交流」 越智淳子(早稲田大学アジア・北米研究所招聘研究員)
0729
第三回大岡研究会は、元外務省員で早稲田大学アジア北米研究所招聘研究員の越智淳子氏による「大岡信と西洋文化―翻訳、旅、人との出遭い―」と題した講演でした。氏は、外務省に入省以来、在外勤務としてシカゴ、英国、ノルウェー、ハンガリー、フィンランド、ポートランド等の大使館、総領事館で広報・文化交流を担当しましたが、その中で、英国、ノルウェー、ハンガリーで大岡信の講演を企画し実現してきました。
講演では、大岡の西洋との関わりを、大岡の十代にまで遡って、ボードレールやエリュアールなどのフランス詩との出会いや、海外の詩をどう日本語にするかという「翻訳」の試みが、大岡自身の詩作にも影響を与えたこと、また西洋美術批評と美術書の翻訳、シュールレアリスム研究など、大岡の仕事において、西洋文化との関わりが如何に大きかったかを明らかにしていきます。と同時に、大岡の場合、ボードレールと新古今集を同時に耽読するなど、日本の古典詩歌への強い関心の持続にも注目しました。最初の西洋への旅である1963年のパリ青年ビエンナーレへの参加で、フランス語を流暢に話しながらも、「人はことばの海に生まれて来ること」を再認識し、大岡のことば―日本語をあらためて考え続けることにより『紀貫之』や『うたげと孤心』のテーマが醸成されてきたことにも言及しました。
海外への旅は多くの詩人や画家との出遭いを育み、例えば、1976年のロッテルダム国際詩祭で出会ったトマス・フィッツシモンズ氏は、のちに大岡が海外連詩を始める重要な出会いとなりました。
1980年代から90年代の経済大国を謳歌していた日本に海外からの関心は高く、特に欧州では大規模な日本文化紹介事業が数多く催され、大岡もスウェーデン、ドイツ、フランス、オランダなど様々な国から招待され、講演、シンポジウム、そして海外詩人との連詩を実現しました。1996年にはマケドニアのストルーガ詩祭で権威ある金冠賞を受賞するなど、高まる評価とともに大岡作品は各国語に翻訳され、世界に広まっている状況も紹介されました。越智氏が企画したロンドン大学、オスロ大学、ハンガリーの日本研究者のための大岡信の講演は、ありがちな日本文化紹介とは違って極めて高度でしかもわかり易く、おもしろく、聴衆の質問にも丁寧に応じて、海外の聴衆は、いずれも深く感銘したとのことです。
「すべてのコミュニケ-ションは究極において翻訳である」と考える大岡の、海外での圧倒されるほど豊かな量と質ももった仕事を、現場に立ち会った一人の外交官の視点から、様々なエピソードを交えて紹介しました。

渡辺竜樹(大岡信研究会会員)

第二回研究会「大岡信 その現代中国における受容」 陳淑梅(東京工科大学教授)
20150125
第二回大岡研究会は、NHK中国語講座の講師としても知られる東京工科大学教授の陳淑梅氏による講演でした。演題は「大岡信 その現代中国における受容」。氏は、1986年に中国から日本に留学し、明治大学大学院で大岡信と出会い、学生として5年間にわたって授業を受けてきました。
講演の中で氏は、院生時代を振り返って、恩師・大岡信との日々をユーモアを交えて紹介しました。学生にいつでも食事を奢るような気前のいい人であったこと。話の導入にいつも妻や子のことに触れる家族愛の深い人であったこと。また、立原道造の詩を朗読しながら目頭を熱くする涙もろい人であったことなど、様々なエピソードから、魅力あふれる「先生」としての大岡信が伝わってきました。
大岡信の作品は、中国社会科学院が出している中国で最も権威ある季刊誌『世界文学』に収録されるなど、詩や散文が多く翻訳されているとのことです。最近では、世界で最も美しい詩が集められた『世界最美的詩歌』や『世間最美的情詩』などの本にも詩が取り上げられているそうです。
氏は、漢詩が「主体と客体との区別・対比がはじめから明確に存在している詩」(『日本の詩歌』大岡信)であり、日本の和歌が「具体的な事物や事件の精細な描写ではなく、それらと出会った時の、作者の感動の簡潔な表現」(同前)であることを引きながら、大岡信の詩作品(「春のために」「さわる」)を例にとって、中国語に翻訳するときの難しさを語りました。
講演の始まる前、運営委員の芥川喜好氏が語ったように、「大岡信という人の、異なる文化を背負ってきた人間に対する深く幅広い受け入れの構えに、すっぽりと嵌った」とでもいえる陳淑梅氏の、まさしく「先生」との最高の出会いを果たした喜びと、大岡作品と日本語への愛情に満ちた講演に、会場はあたたかな雰囲気に包まれました。 渡辺竜樹(大岡信研究会会員)

大岡信研究会:特別研究会①「日本の詩歌 その骨組みと素顔と東アジア」 王淑英(韓国仁荷大学校教授)
DSCF8093
第二回大岡研究会は、大岡信が長く教壇に立っていた明治大学を会場にして、韓国仁荷大学校教授のワン・スギョン(王淑英)氏を招いて特別講演を行いました。
日本中世文学を研究している氏は、「折々のうた」を毎朝の楽しみにするほど大岡信の仕事に親しみ、『うたげと孤心』は自らの研究や考え方の基本になっているといいます。
今回の研究会は、大岡信が1994年と95年にパリのコレージュ・ド・フランスで行った連続講義の日本語版『日本の詩歌 その骨組みと素肌』を氏が韓国語に翻訳し、出版した機会を捉えて、『日本の詩歌 その骨組みと素肌』と東アジア」の演題で開催されました。
氏は、この本の成り立ちは、ヨーロッパ文化圏という「場」を背景にしているが、今度は漢字文化圏(韓国)である東アジアにこの本を置くことで、見えてくるものがあればと願って取り組んだとのことです。また、日本語の原題「骨組みと素肌」を「骨組」は漢詩、「素肌」は和歌を意味するのではないかとの考察を示し、韓国語では、直訳せずに「日本の詩歌、その骨格と心」と訳した背景を語りました。この本で語られる漢詩(菅原道真)から和歌(紀貫之)へと展開していく日本の詩歌史は、東アジア文化圏において大変興味深い問題として提起しました。講演では、韓国の時調(シジョ)などの紹介もあり、広く東アジアにおける詩歌について考える絶好の機会となりました。 渡辺竜樹(大岡信研究会会員)


第一回研究会「折々のうた アンソロジストとしての大岡信」 長谷川櫂(俳人)
001
第一回大岡研究会は、2014年9月28日、60名近い参加者を得て、神奈川近代文学館で開かれました。はじめに会長の西川敏晴氏から、「大岡信の仕事は分野が広く、かつ深い内容を持っている。その豊かな仕事へのアプローチは様々であり、この研究会が大岡信の本を読みなおす機会となれば」と挨拶があり、茶話会のような寛いだ雰囲気の中、研究会はスタートしました。
記念すべき第一回目の研究会は、「折々のうた アンソロジストとしての大岡信」と題した俳人・長谷川櫂氏の講演。大岡信に若い頃から親炙しているという長谷川櫂氏は、講演の冒頭で、「星雲のような大岡信の広範にわたる仕事の背景には、自由な精神がある。今後、発表者が、ダイヤモンドカットのように多角的に大岡信の仕事を追及していくのがこの研究会の仕事ではないか」と期待を込めました。
講演は、大岡信の代表作ともいえる『折々のうた』の歴史的意義と、「ことばとは何か」を常に追求するアンソロジスト大岡信が、どのような考えに基づいて詩歌を選んでいたかに言及。また、日本の詩歌アンソロジーを東アジアの歴史の中に据えてダイナミックな文学史を展開するなど、これからの研究の糸口になり得る刺激に満ちた講演となりました。 渡辺竜樹(大岡信研究会会員)