第十九回大岡信研究会報告:「今日は俳句を読んでみよう~『折々のうた』の俳句を読む」講師:高柳克弘氏(俳人)
第十九回目となる大岡信研究会は、前回に続きズームでの研究会となった。俳人の登壇は、第一回の長谷川櫂氏に次いで2人目。ともに『折々のうた』をテーマにした講演であったが、長谷川氏が『折々のうた』の大アンソロジーとしての歴史的意義を語ったのに対し、高柳氏は、『折々のうた』の鑑賞文にみられる大岡の独自性を探る内容であった。
大岡の文章は、鑑賞文としてあるべき要素が凝縮されていて、作者の来歴、句の意味する内容、ほかの作品との響き合いが、バランスよく配されている安定したテクストであることを氏はまず指摘した。その一方で、大岡の鑑賞文には、過剰で逸脱しているところもあり、そこが大岡の鑑賞文のおもしろさではないかと語り、具体的な例を紹介しながら読み解いていった。
松本たかしの句<金粉をこぼして火蛾やすさまじき>の鑑賞では、「焼かれつつ舞いつづける蛾」と表現している箇所に注目し、「舞い」という言葉をあえて入れたところに、能役者の家に生まれたという作者の来歴を知った上で鑑賞する大岡の特長と、過剰でやりすぎのところがある大岡ならではの表現がみられるとし、そこが氏にとっておもしろく、惹きつけられるところだという。また、かならずしも主題が同じとも言えないゲーテの詩「浄福的な憧れ」を響き合わせることで、死をもって生まれ変わろうとする煌きや力強さを想起させ、松本たかしの句意に膨らみが生まれることを指摘した。
野沢凡兆の<鶯や下駄の歯につく小田の土>では、「足をとられてつい舌打ちするような時」と対象に成り変ってしまう憑依的な大岡らしい表現が見られると指摘した。
詩人の感性で与謝蕪村を「創造的誤読」していた萩原朔太郎と同じように、大岡の『折々のうた』にもユニークな視点やときに「創造的誤読」が垣間見られ、それだからこそ価値があり、豊かさがあるのではないかと語った。
さらに氏は、大岡が俳句において何を大切にしていたのかを『折々のうた』の鑑賞文の行間から読み解いていった。氏によれば『折々のうた』の俳句鑑賞において、「転じる呼吸」や「一気呵成の言葉の力」など呼吸についての言及が多いことを指摘。大岡が、俳句の真の価値を「音韻」や「呼吸」に見出していたことを示唆するとともに、風格や品位など句がもっている格調の高さを重視していたことを推察した。
今回の講演では、俳人の視点から『折々のうた』に新しい光が当てられ、大岡の鑑賞文のもつ豊かさと、『折々のうた』の新しい読み方を知ることとなった。さっそく再読して大岡ならではの鑑賞を探ってみようと思った。
(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)