第十七回大岡信研究会報告『大岡信と花神社』講師:大久保憲一(元花神社社長)、聞き手:西川敏晴(大岡信研究会会長)
今回の大岡信研究会は、長年、編集者として大岡と交流のあった元花神社社長・大久保憲一氏が登壇した。冒頭、聞き手である西川会長から、1050冊の本を世に送り出し45年の歴史に幕をおろした花神社(2019年12月閉社)の歴史を記録しておくことの意義が語られた。
まず、1974年に花神社を設立するまでの前史を西川会長は質問し、大久保氏は山梨シルクセンター出版部での編集者時代のことから話し始め、そこで大岡とのはじめての出会いが語られた。1969年頃、大久保氏は、女性の詩人の詩集シリーズは売れると考えて、叢書の企画をあたためていたという。当時出ていた『大岡信詩集』や『現代詩人論』をちらっとみて、この人はすごい人じゃないかと思い、大岡に解説をお願いしたのが出会いという。後に大岡の解説をつけて「現代女性詩人叢書」として15人の詩集を世に送り出した。あらかじめ17人の候補者を用意して、10人の詩人を選んでもらおうと大岡に依頼したが、「選ぶのは無理だ」と断られたという。その後、山梨シルクセンター出版部を辞めて独立を考えたとき、大岡が「好きなことをやればいいじゃん」と背中を押してくれたという。1974年10月に「花神社」創立。社名には、芸術を花とし、それに大岡信から信を採って「花信社」と、当時流行っていた司馬遼太郎の小説『花神』から「花神社」という案があったが、結局、大岡に相談して「花神社」に決定したという。
花神社として初めて作った大岡の本は、珍しく大岡が装丁をおこなった1975年『本が書架を歩みでるとき』で朝日新聞の書評欄の文章などを収録したもの。大岡の書評は、終わりの数行で取り上げた本を読みたいと思わせると大久保氏がその文章の妙を指摘すると、短いことばで作品の読みどころを伝える「折々のうた」につながるものがあるのでは、と西川会長が応じた。1976年『子規・虚子』を経て、1978年『ことばの力』、1980年『詩とことば』、1982年『詩の思想』の3部作。その他『人麻呂の灰』、『楸邨・龍太』と続き、『故郷の水へのメッセージ』ではじめて大岡の詩集を作り、現代詩花椿賞に輝いた。
大岡の、言葉の意味に対する深い知識や単語の選び方に、大久保氏自身、驚くとともに影響を受けたことも語った。ルビを勝手にはずしたことを大岡に怒られたという編集者ならではのエピソードの紹介もあり、大岡がいかに読者のことをよく考えていたかがわかった。
大岡は人に対する思いの深い詩を書く人だったという大久保氏は、なかでも『捧げるうた50篇』が最も大岡の特質が出ている詩集であると推す。
途中、大久保氏と交流のあった詩人・茨木のり子などにも触れ、有名な「自分の感受性くらい」という詩が、はじめは「自分の感受性ぐらい」であったが、大久保氏が語感と字面から、「くらい」を提案して、詩人も納得され元の詩も修正したという興味深い話も披露された。
会員の奈良禎子さんにより、大久保氏がかかわった茨木のり子の詩篇と、大久保氏が好きな大岡の詩「三島町奈良橋回想」が朗読された。
聞き手の西川会長が、大切なものとして大岡が晩年に書いてくれた署名本を紹介すると、大久保氏も大岡からの葉書を紹介した。大岡が好きだったマリリン・モンローにちなんだ「マリリンメルロー」というワインを受け取ったお礼状で、蔵書の整理を依頼する文言も書かれており、公私にわたる交流の一端を知ることができた。
話題は、1987年に創刊された雑誌『花神』や、大久保氏が事務局長として関わった2002年から7年間続いた大岡フォーラムのことにも広がった。
最後に、会場のかね子夫人から、大久保氏が「現代女性詩人叢書」の解説を南画廊にいる大岡に依頼しに来たとき、「あんまり何も知らないので、引き受けちゃったよ」と大岡が言っていたという愉快なエピソードが語られた。また、大岡の実生活を支えたかね子夫人から、大岡の仕事を支えた大久保氏への心のこもった感謝の言葉があり、参加者は、このように温かな人たちに囲まれて大岡信の文筆生活は営まれていたのだと改めて気づかされた。大岡に伴走した編集者からの視点は、今後、大岡信を研究する人にとっても刺激的なものであると感じた。
(渡辺竜樹:大岡信研究会会員)