大岡信の年譜

出典「大岡信全詩集」の大岡信年譜より 2002年 思潮社発行

一九三一年(昭和六)
二月十六日、静岡県田方郡三島町(現三島市)に、大岡博、綾子の長男として生れる。大岡家は代々徳川家に仕える旗本であったが、維新後、曾祖父は駿府へ隠退する徳川慶喜に随行し、三島で警察署長に就任。祖父は温暖清流のこの町の生活に安住せず、貿易商を志し、横浜、神戸、ついで上海に渡って客死した。父博は、教育者の道を選び、そのかたわら歌人として多くの弟子を育てた。母綾子は博と同じ小学校の教師であり、博と結婚入籍後も、家計を支えるため仕事を続ける。「父は自らの主宰した歌誌「菩提樹」(昭和九年創刊)の昭和十四年九月号以降昭和二十四年八月号まで、戦中・戦後の強いられた休刊期間を除いて、前後六十二回にわたり「窪田空穂全歌集の鑑賞」を書き続けた」(大岡信『窪田空穂論』あとがき)。大岡信における短歌の問題は逆説的に大きい。また三島、そして近隣の沼津という自然環境は、海、空、砂浜、あるいは霧など、後の大岡信の詩作品に大きな影響を与える。

一九三四年(昭和九)
九月六日妹、雅生れる。

一九三七年(昭和十二)
小学校入学。「小学校は三島南小学校、のどかな田園の中にあった。虚弱ではなかったが腺病質で、しばしば寝こんだ。小学五年の時扁桃腺炎とアデノイドの手術をしてから、割合丈夫になった。手術の時、田中院長の白衣が私の咽喉から飛び散る血であっという間に真赤になるのを見詰めて、強い印象を受けた。咽喉や鼻が弱い体質はその後もあまり変わらない。/飼ったもの・・目白(何羽も)、鶏、鶯(傷ついていたため短命)、犬猫、鯰、のちに山羊(ただし牡で何の役にもたたず)。鯰のことは作文に書いて当時中央公論社から川端康成選で刊行された『模範綴方全集』に応募し(本人に黙って父親が応募)、二年の巻に佳作でとられた。入選の作を読んで、私などと段ちがいにうまい文章が並んでいるのに驚いた。/捕ったもの・・昆虫さまざま、ハヤ、マルタ、フナなど川の生物、螢たくさん。川の魚は竹製、ガラス製のモジリを仕掛けて捕るか、釣竿(多くは手製)で釣るかだった。どぶの糸ミミズ、川石の底に付着している通称オイベッサンという小虫や飯粒などをにした。三島は川の町だったから、藻や水草に情動を刺激されることが多かった。/作ったもの・・模型飛行機(多種、多数)、凧(大小いろいろ)」(大岡信『批評の生理』略歴)。「童話で今なおぼくの記憶の底に死なずに残っているのは、アルスから出ていた数十巻の児童読物の全集の中にあった、『印度童話集』の死人たちの世界である」(大岡信「わが前史」)。

一九四三年(昭和十八)
静岡県立沼津中学校(現沼津東高校)に入学。中学二、三年の時、工場動員。「学校は沼津東郊の山と狩野川に前後を抱きしめられる位置にあった。いい場所にある学校だったが今は北郊の山腹に移転し、昔の中学生の懐旧の情は宙にまよう。戦中の工場動員のため、中学二、三年の授業に関する記憶はほとんどなし」(『批評の生理』略歴)。五月十一日弟、脩生れる。

一九四五年(昭和二十)
八月、敗戦。「八月十五日の日本敗戦によって、それまで十五年間続いた戦時体制から解放されたが、勤労動員されていた軍需工場から帰るべき校舎は空襲で丸焼けになっていた。数ヶ月後に、旧軍需工場跡を占拠し居座って始まった中学三年末期の授業は、戦争中に引き続いて混乱したままだったと思う。翌年も授業は悪条件ばかりの中で進められた。しかし、兵役はなくなり、爆弾も焼夷弾ももはや攻撃して来ないという事実は、私たちを解放感で満たした。食糧の窮乏よりもはるかに勝って、新しい知識への飢餓が中学三年生を襲っていた。数十のクラブ組織が作られ、その一つに「鬼の」という同人雑誌もあった。これは前記三人および私が、朝鮮で兵役に従っていて復員してきた若い国語教師木清さんを抱きこみ、それに若い英語教師中村善夫さん(東大の英文学科を出て間もなかった)をも加えて創刊したものである。下級生も二、三人誘ったが、本体となったのは三年生の生徒四人と教師二人だった。「鬼の詞」という誌名は木さんの提案によるもので、江戸時代末の歌人橘曙覧の「吾が歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声する夜の窓」などの四首の「戯れに」と題する歌や、明治の詩人伊良子清白の『孔雀船』中の一「鬼の」などから採った。ろくにロマン主義のことなど知らないうちに、私たちは生意気にもロマン派好みの文学少年に、形だけはなったわけだった」(『捧げるうた 50』)。

一九四六年(昭和二十一)
二月、「鬼の詞」第一号(創刊準備号と称した)発行。「雑誌の用紙はすべて、学校の前身だった軍需工場に大量に放置されていた工員の作業日程表を失敬し、その裏側の白い部分を利用して、表紙絵も本文もすべて、絵も字も抜群だった重田がガリ版を切って制作した。五十部足らずを作り、ハンサムボーイだった太田裕雄が県立沼津高女に売りさばきに行ったり、友人たちに買わせたりした。短歌、俳句、詩、訳詩、小品文などから成っていた。内容からすると、当時の中学三年生、四年生としては、たぶん全国的レヴェルでも最も高いものの一つだったろう」(『捧げるうた 50篇』)。

一九四七年(昭和二十二)
沼津中学四年から旧制一高文科丙類に入学、東京駒場の寮に移る。新任教官として寺田透が、同級には佐野洋(当時は本名で丸山一郎)、稲葉三千男ら、上級に村松剛、日野啓三、山本思外里、濱田泰三、森本和夫、工藤幸雄が在校。「十五、六歳以後の私にとって目のさめるような経験だったのは新古今集との出会いで、これは私がフランス文学に興味をもっていたということと関係があったようです。私は大学へ進むときは、成績不良で第三志望の国文科へ回されたのですが、旧制高校時代から、フランス文学、とくにボードレール以後の詩に強くひかれていました。……高等学校の寮の薄暗い部屋の万年床の上で、新古今とボードレールを並べて読んでいたような状態です」(大岡信「貫之のゆかり」)。

一九四八年(昭和二十三)
「夢の散策」「喪失」「心象風景」など後に「水底吹笛」に収められる詩群のいくつかを執筆。
十一月、詩「ある夜更けの歌」を校内紙「向陵時報」に発表。同号の編集委員は一級上だった日野啓三。この頃、友人太田裕雄を通じて相沢かね子と知り合う。

一九四九年(昭和二十四)
「青春」「夢のひとに」「水底吹笛」「懸崖」など、後に詩集『記憶と現在』の「夜の旅」に収められる一群の作品、および「水底吹笛」に収められる一群の作品を執筆。恋愛の奇妙な逆説性が主なテーマとなり、暗鬱な色調のものが多い。ボードレール、ランボー、T・S・エリオット、オーデン、ヴァレリー、菱山修三などを読む。

一九五〇年(昭和二十五)
東大国文科に進む。栗田勇、飯島耕一、東野芳明らと知り合う。この頃、数度にわたって、父の主宰する歌誌「菩提樹」に詩および評論を発表。
八月、丸善に注文してほぼ半年後に届いた『エリュアール詩集』を読み「そして空はおまえの唇の上にある」の一行に衝撃を受ける。
十二月、三好達治の紹介で「文学界」に発表された谷川俊太郎の「ネロ他五」を読む。

一九五一年(昭和二十六)
三月、日野啓三、佐野洋、稲葉三千男、山本思外里、濱田泰三、金子鉄麿らとともに雑誌「現代文学」を創刊、またこの「現代文学」の前身にはほぼ同じメンバーで発行したガリ版刷の「ヴァンテ(VINGT ET…)」があった。後に『記憶と現在』の「夜の旅」に収められる一群の詩作品の他、エリュアールの翻訳、菱山修三論などを発表。「赤門前の喫茶店タムラに始終あつまってだべり、雑誌の合評をした。ぼくはいつでも生意気なことをいって小説や評論を書く友人たちに「詩人ってやつは……」ときらわれた」(大岡信「日記抄へのノート」)。
四月、「現代文学」五号にて終刊。
五月、詩集「方舟」草稿成る。

一九五二年(昭和二十七)
詩作上の転機となった作品「海と果実」(後「春のために」と改題)を大学内で有志が発行した新聞に発表。「彼の詩的出発を端的に言えば、それはみずみずしく温和な日本的感性による抒情と、エリュアールの芸術前衛的ではあるが明澄な表現との合体であった。秀作「春のために」は、その精神的出会いの幸福を示している」(清岡卓行・新潮日本詩人全集34)。
八月、エリュアール論を執筆。
十一月、「赤門文学」(復刊一号のみ)に、詩および評論「エリュアール」を発表、中村真一郎によって「文学界」同人雑誌評にとりあげられる。
十一月十八日、ポール・エリュアール死去。
十二月、卒業論文「夏目漱石・・修善寺吐血以後」脱稿。漱石の作品の展開とその恋愛観の深まりを緊密に関連させながら、意識と自然の乖離を論じ、併せて漱石の文明批評、個人主義などを批判する。

一九五三年(昭和二十八)
一月、木のり子、川崎洋、谷川俊太郎らの「櫂」グループとはじめて接触する。
四月、東大卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属される。主に、外国からの電報を翻訳する仕事に従事。佐野洋も読売新聞に入るが、地方に配属される。一年先輩には日野啓三がいた。「大学を出て、新聞社での仕事も外国語を読むことですし、たいていは外国の本を読むことのほうが多かったと思います。当時読売新聞本社のあった銀座界隈の「ブリティッシュ・カウンシル」に関係のあった洋書店でイギリスやアメリカの本を買い、「イエナ」あたりでフランスの本を買っては読む、そんな生活だった」(大岡信「古典と私」)。
八月、嵯峨信之の依頼により、「詩学」に「現代詩人論」を執筆。
十一月、三井ふたばこ主宰の「ポエトロア」三号に「シュペルヴィエル論」を発表。以後、詩論を断続的に掲載。同月、飯島耕一『他人の空』書肆ユリイカより刊行される。

一九五四年(昭和二十九)
書肆ユリイカ社主、伊達得夫からとつぜん端書で呼び出され、ユリイカ版『現代詩人全集』に作品を収録したいと打診される。那珂太郎の強い推輓によることを知り、当時、駿河台の三楽病院に入院していた那珂太郎を訪ねる。
九月、ユリイカ版『現代詩人全集』第一巻に初期主要作品が一括収録される。同月、川崎洋、木のり子、谷川俊太郎、吉野弘らの詩誌「櫂」に参加。詩「手」「遅刻」「翼あれ 風 おおわが歌」などを発表。

一九五五年(昭和三十)
六月、詩論を集めた最初の本『現代詩試論』を書肆ユリイカより〈双書 たねまく人〉の一冊として刊行(同叢書はほかに安東次男『現代詩のイメージ』、中村稔『宮沢賢治』などを含む)。詩人の第一作目の著作が詩集ではなく評論集であったことは、詩と批評が以後の文学活動の両輪をなしてゆくことを端的に語る。
十一月、とつぜん西荻窪の下宿を訪れた「群像」編集部の大久保房男に依頼されて書いた詩「肖像」が雑誌に掲載され、はじめて文芸誌から原稿料をもらう。

一九五六年(昭和三十一)
三月、「短歌研究」に「新しい短歌の問題」を執筆、本邦雄との論争になり、四月、六月と書き継ぎ、岡井隆、高柳重信と知り合う。
六月、飯島耕一、東野芳明、江原順らと「シュルレアリスム研究会」を結成、「美術批評」誌で連続シンポジウムを行う。後、村松剛、菅野昭正、清岡卓行、針生一郎、中原祐介らを迎え、「美術批評」廃刊後は、「みずゑ」に発表の場が移り、翌年十二月の第八回で終回となる。この間、瀧口修造と知り合う。
七月、第一詩集『記憶と現在』を書肆ユリイカより刊行。自己自身を凝視する第一部「夜の旅」、自己自身からの脱出、青春への訣別を告げる第二部「春のために」、再び憂欝の気配に覆れる第三部「証言」、そして第四部「記憶と現在」の「Pre´sence」へと至る構成は、詩人の遍歴、あるいは「彷徨の記録」(渡辺武信)をたどる「読み」の方向を示唆しているだろう。「私は、この詩人が、ノスタルジアとしてではなく、伝統的和歌、俳句の世界に目を向けていることをしっているし、その自覚の下に日本語のあたらしいイメージを切り拓いてゆこうと血のにじむような努力をしているのをしっているつもりである。それは、たとえばこの詩を外国語にほんやくした場合、それでも立派に詩として通用する世界の探求であり、さらに、もっと大胆に日本語を根底から新しいイメージにつくりかえてゆこうとする努力である。こういう努力は、われわれの因習的で怠堕な環境の中では、さしあたって、労多くして功が少ない。しばしばことばの(日本語の)重量が失われてゆくように読者に受けとられる場合もある。作者はそれを充分しっているであろう。しかしこの努力は絶対にさけるべきではない。私は、大岡君の詩を読む場合、彼がかんたんな一つの表現に到達するまえに、どれほど秘められた苦心をしているか、それを探っているときがたのしい。そういうことを探らせる詩がわれわれのまわりにはあまりにも少ない。そして彼の詩は、それをやさしく読者に押しつけてくる。私は、ここに彼の文学の基盤があると思っている」(安東次男・『記憶と現在』書評「図書新聞」一九五六年十月六日号)。
八月、「美術批評」に「パウル・クレー」を執筆、以後、美術評論を書きはじめる。
十一月、「ユリイカ」創刊第二号に「中原中也と歌」を発表。

一九五七年(昭和三十二)
三月、詩誌「今日」(平林敏彦、飯島耕一、清岡卓行ら)に七号から参加。以後、詩「さわる」「声」「転調するラヴ・ソング」などを発表。
四月、相沢かね子(筆名深瀬サキ、劇作家)と結婚。仲人は椎名麟三夫妻。「椎名さん夫妻は、私たちの結婚の仲人なのである。人にそういうと、たいていの人がびっくりする。椎名さんと私との結びつきがみこめないらしい。実は椎名さん夫妻を知っていたのは、私ではなく、妻の方だった。女学校を出てまもないころ、椎名さんの愛読者だった親しい年上の女性に連れられて、松原の椎名さん宅を訪問したのがきっかけだという」(大岡信「椎名麟三追悼」)。同月、「立原道造論」を「ユリイカ」に執筆。また同月から「詩学」詩論批評を一年間担当。
六月、三鷹市上連雀一に転居。
九月、的場書房より刊行の『櫂詩劇作品集』に「声のパノラマ」を発表。

一九五八年(昭和三十三)
三月、詩人論、およびシュルレアリスム論を中心とする評論集『詩人の設計図』を書肆ユリイカより刊行。同月、新橋の画廊「ひろし」で書肆ユリイカ創立十周年を記念する「ユリイカ詩画展」が開かれる。伊達得夫は大岡の相手として気鋭の版画家駒井哲郎を選ぶ。以後、駒井に親しみ、世田谷の家を訪れて制作中の駒井に接する。
八月、「ユリイカ」に「詩人の青春・・保田与重郎ノート」を連載(同年十二月まで)。
十月、長男玲誕生。
十一月、吉岡実の詩集『僧侶』書肆ユリイカから刊行される。
十二月、詩誌「今日」第十号で終刊。

一九五九年(昭和三十四)
七月、「詩学」に「昭和十年代の抒情詩」を執筆。
八月、吉岡実、飯島耕一、岩田宏、清岡卓行らと同人詩誌「鰐」を創刊。詩「夢の書取り」「お前の沼を」「冬」「大佐とわたし」「悪い習慣」などを発表する。「鰐」は書肆ユリイカを発行所とし、九号までほぼ月刊。この年、現代美術を中心に仕事をはじめていた南画廊社主、志水楠男の依頼で「フォートリエ展」のカタログ作成に協力。以後、南画廊を中心に現代美術家と親交をむすぶ。

一九六〇年(昭和三十五)
一月、遠藤利男プロデュースによるNHK放送詩集がはじめられ、清岡卓行、木のり子、岩田宏の諸作につづいて、はじめての放送詩劇「宇宙船ユニヴェール号」が放送される。以後「新世界」ほか放送される。
二月、「鰐」六号に「疑問符を存在させる試み」、「近代文学」に「芸術マイナス1」をそれぞれ執筆。
六月、モダン・ジャズ、現代音楽の活動の場として発足した草月アート・センターの機関誌「SAC」に「ケルアックのジャズ・ポエム」を執筆。以後、六六年の同誌終刊まで、演劇映画批評を中心に断続的に寄稿。同誌の常連執筆者には東野芳明、秋山邦晴、飯島耕一、植草甚一らがおり、武満徹の「」も同誌に連載されている。「赤坂に草月会館ができ、多くの若い音楽家や映像作家や舞台人の最も新しい仕事が定期的に発表されるようになって、私は武満徹をはじめ何人もの同世代の音楽家たちを親しく知るようになった」(大岡信「武満徹と私」)。
七月、戦後詩人論「都市の崩壊と愛の可能性」を「文学」に発表。
九月、現代芸術および詩論をあつめた評論集『芸術マイナス1』を現代芸術論叢書のひとつとして弘文堂より刊行。
十一月、「ユリイカ」特集「戦争の前夜」に「戦争前夜のモダニズム」を執筆、モダニズムと「日本浪曼派」などの日本主義文学運動との本質的な類似性を指摘する。
十二月、書肆ユリイカより『大岡信詩集』を〈今日の詩人双書7〉として刊行。『記憶と現在』からの抄録を第一部、後「転調するラヴ・ソング」として独立する部分を第二部とする。解説・寺田透。同月「中央公論」に現代芸術論「単独航海者の歌」を執筆。この年、サム・フランシスを知り親しむ。また南画廊での個展「燐と花と」で加納光於を知る。

一九六一年(昭和三十六)
一月、三鷹の新居に吉岡実夫妻、飯島耕一夫妻来訪。一月十六日、書肆ユリイカの伊達得夫急逝。「ユリイカ」は二月号で終刊となる。「詩のみならず演劇、音楽、美術、写真その他の分野の若い芸術家たちに協力を求めようとしているやさきに、死が彼をとつぜん襲ったのだった」(大岡信「素描 現代の詩」)。
三月、「詩学」詩劇特集に「宇宙船ユニヴェール号」を掲載。
四月、「保田与重郎ノート」「三好達治論」「菱山修三論」を含む評論集『抒情の批判――日本的美意識の構造試論』を晶文社より刊行。「保田与重郎氏といふ存在は一つの無気味な神話であり、美と死と背理の専門家の劇的半生であり、戦後の永い沈黙がまたそれ自体一つの神話である以上、はじめ昭和七年ごろの知識人のデカダンスから説き起こされたこのエッセイはスピーディーな精神史的展望と共に、おもしろい小説的興味をも喚起する。一つの時代とともに生き滅びること、自分の人生と思想をドラマにしてしまうことが、いかに恐ろしく、戦慄的で、また魅惑的であるかを、このエッセイほど見事に語つた文章はまれである」(三島由紀夫・『抒情の批判』書評)。
五月、前年秋から再度来日していたサム・フランシスの「ブルー・ボールズ」展(日本橋南画廊)に詩「サムのブルー」を寄せる。
八月、「文学界」に戦後詩試論「曖昧さの美学」を執筆、吉本隆明の「戦後詩人論」を批判し、一九三〇年以降に生まれたいわゆる「第三期」の詩人たちを擁護する。

一九六二年(昭和三十七)
二月、「西脇順三郎論」を「詩学」に発表。放送詩「運河」NHKより放送。
八月、『ミロ』(平凡社)で評伝・解説を書く。
九月、伊達得夫死後長く休刊していた「鰐」が終刊号として十号を刊行、詩「マリリン」を書く(この号のみ発行所は大岡方)。同月、評論「朔太郎問題」を「無限」に発表。
十月、詩「環礁――武満徹のために」による武満徹作曲の「ソプラノとオーケストラのための『環礁』」文化放送より放送。「ソプラノの声に溶けこんだぼくの言葉は、キラキラ輝く水滴になって空に飛散してしまったような鮮烈な印象を与えた」(大岡信「覚書一九六五」)。詩は「現代詩」十一月号に掲載。
十二月、「鰐」に発表された詩を主に収録した詩集『わが詩と真実』を思潮社より「現代日本詩集」の一冊として刊行。編集・解説、飯島耕一。

一九六三年(昭和三十八)
一月、「現代詩手帖」で瀧口修造と対談、「創ることと壊すこと」。以後、手帖対談と題して断続的に安東次男(四月)、栗田勇(八月)、三好達治(十一月)と対談。
二月、長女亜紀誕生。
四月、「割れない卵」を「文学」に執筆。同月、読売新聞社を退職。「ぼくは外電の翻訳をしながらつねづね感じてきた違和感に、だんだん耐えられなくなってきていた。「消息筋によれば」「信頼すべき筋によれば」というあの一種独特な客観主義的言いまわし、あれによって代表される海外ニュースの報道というものは、ぼくが家でやっている仕事の性質と、どうしても相容れないところをもっていると思われた」(大岡信「満十年目の喜劇」)。
六月、古典論、現代詩試論、金子光晴、西脇順三郎、萩原朔太郎、北原白秋についての文章を含む評論集『芸術と伝統』(装幀・駒井哲郎)を晶文社より刊行。
七月、「現代詩手帖」で飯島耕一、岩田宏、堀川正美とともに座談会、「想像力の方向」。
十月、「現代詩手帖」に詩「ことばことば」を発表。同月、パリ青年ビエンナーレ詩部門に参加のため渡仏、パリ市近代美術館で講演、谷川俊太郎、飯島耕一、井喬、岩田宏、大岡信の作品を紹介し、日本の戦後詩について論じる。また、この時はじめて画家菅井汲と出会う。
十一月刊の『ポロック』(みすず書房)にテキストを執筆。

一九六四年(昭和三十九)
一月、帰国。
四月五日、三好達治死去。同月、帰国報告をかねて東野芳明と「現代詩手帖」で対談、「人間対人間」。また「現代詩」に「日本――パリ――日本」を連載(四月、五月、六月)。
六月、「現代詩手帖」特集「三好達治」追悼のための座談会に鮎川信夫、中村真一郎、菅野昭正とともに出席、「この世のパッサーン」。
九月『クレー』(河出書房)に、十一月『ピカソ/レジェ』(学研)に、評伝・解説を執筆。
またこの年、ラジオ作品数を執筆。「一九六四年、長崎に題材をとった「墓碑銘」というのを書いた。セリフというものを意識して書いた最初の作品といっていい。これがその年の放送記者会賞最優秀賞を与えらえ、ドラマ形式というものが五里霧中の感じだった私にとっては、ちょっとした出来事になった」(大岡信「あだしの 覚書」)。
十二月、「現代詩手帖」の座談会に鮎川信夫、岩田宏、堀川正美とともに出席、「詩人の人間形成と時代」。

一九六五年(昭和四十)
一月から「覚書一九六五」を「現代詩手帖」に連載(~五月、八月~十月)、ジャスパー・ジョーンズ、道元、ピカソ、都市と人間、電子音楽、保田与重郎、窪田空穂、フェリーニについてなどきわめて自由な筆致が展開される。
二月、パリ青年ビエンナーレ参加のもたらした成果を主に、美術評論、詩をも加えたエッセイ集『眼・ことば・ヨーロッパ』を美術出版社より刊行。「大岡氏はつねに白紙の状態から、個々の作家の内面にふかく入ってゆく。そうして最後に、かならず、ヨーロッパと日本の文化の伝統が、そこにおいて鋭く対立する問題点ともいうべきものを、ひっぱり出してくる。それが、この本ぜんたいをユニークな詩人の目でとらえた、文明論たらしめている」(澁澤龍・『眼・ことば・ヨーロッパ』書評「日本読書新聞」)。
四月、「文学」に「口語自由詩の運命」を「昭和詩の問題1」として執筆。以後断続的に「萩原と西脇」「宇宙的感覚と近代意識」「抒情の行方」「守備の詩と攻撃の詩」と5まで書き継ぐ。同月、明治大学非常勤講師になる。
六月、詩「クリストファー・コロンブス」「水の生理」を「現代詩手帖」に発表。同月、作曲家端山貢明と、言葉とオーケストラによる六楽章の交響曲『象形』を制作。
八月、『ルソー/デュフィ』(河出書房)に評伝・解説を執筆。
十月、明治大学助教授になる。
十二月、「現代詩手帖」の座談会「日本人の経験をめぐって」に金子光晴、鮎川信夫、谷川雁、吉本隆明、谷川俊太郎、岩田宏とともに出席。同月、評論集『超現実と抒情』を晶文社より刊行。また、思潮社版『現代詩論大系(全六巻)』のうち四、五巻を編集解説。なお、一巻は鮎川信夫、二、三巻は吉本隆明が編集解説を担当。

一九六六年(昭和四十一)
一月、「言葉の現象と本質」を「放送朝日」に連載(同年三月まで)。
二月、「現代詩手帖」特集「詩はほろびたか?」の鼎談に鮎川信夫、武満徹とともに出席(インタビュー・渡辺武信)。
三月、芸術論を第一部、詩論を第二部とするエッセイ集『文明のなかの詩と芸術』を思潮社より刊行。
五月、放送劇「写楽はどこへ行った」NHKより放送。同月、随筆「女・その神話」を季刊「いけばな草月」(後「草月」と改称)に連載(一九七三年十月まで)。
七月、『クレー/カンディンスキー/ミロ』(河出書房)のうちカンディンスキー、ミロにつき評伝・解説。同月、「現代詩手帖」で栗田勇、林光、羽仁進とともに座談会、「現代芸術の課題」。
九月、「展望」に「現代芸術批判」を執筆。
十月、放送劇「」NHKより放送。
十一月、詩「わが夜のいきものたち」を「現代詩手帖」に発表。この年から翌年にかけて、思潮社版『現代詩大系(全七巻)』に通巻解説として「戦後詩概観」を連続執筆。「それにしても、思潮社の「現代詩大系」七巻の解説として書いた「戦後詩概観」という文章は、非常に書きにくかったように憶えています。現代詩について書くときは実に重苦しさを感じるのですけど、これを書いた当時は特に難しかったような気がします。いわゆる六〇年代詩人といわれる人人がそれぞれ詩集を出し始めていて、現代詩においても、言葉を扱う態度にある種の変化が生じそうな感じがあったからです。今考えてみると、実際に変化した面もあるけど、途中でうやむやになってしまった問題もあると思いますが。そういう書きにくさもあって、「はじめに」という項では何度読み返しても新鮮な「本」とはどういうものか、といったことについて一般論を書いています。現代詩がそういう「本」でありうるか、という問いがいつも僕の中にはわだかまっているため、そのことから書き出したわけです。所々で具体的な作品を引合いに出しつつ、そういう問題についても触れることができたと思いますけど、とにかく書きづらくて、僕の文章ができないために「現代詩大系」の刊行が徐々に遅れたという記憶があります」(「詩史を書くということ」)。
『われらの文学4・大岡昇平』(講談社)に解説を執筆。

一九六七年(昭和四十二)
四月、絵画と言葉の本質的連関を論じた評論「目の詩学」を「季刊芸術」創刊号に執筆。詩「地名論」を「現代詩手帖」に発表。
六月、「現代詩手帖」で武満徹と(「言葉と音の世界」)、七月、同じく谷川俊太郎と(「休暇の経度と緯度」)対談。
八月、「中央公論」誌上で芸術時評を連載執筆(一九六八年五月まで)。
九月、詩、美術、演劇における言葉の問題を論じたものを集めた評論集『現代芸術の言葉』を晶文社より刊行。「われわれ自身や行為はいうまでもないが、そもそもわれわれを取巻いている事物や行為は、すべて言葉とみなされるべきではないか?」(同書あとがき)。
十月、瀧口修造の誕生日と『詩的実験』の刊行を祝う会の後、飯島耕一、吉岡実と西脇順三郎家を訪問。

一九六八年(昭和四十三)
一月、「現代詩手帖」に瀧口修造との往復書簡を掲載。
二月、単行本としては未刊の詩集群、「物語の人々」「水の生理」「献呈詩集」「わが夜のいきものたち」「方舟」を含む綜合詩集『大岡信詩集』を思潮社より刊行。
三月、「現代詩手帖」で天沢退二郎と対談、「書くことの新しい視点」。
四月、思潮社主催の公開討論会「詩に何ができるか」に山本太郎、岩田宏、中江俊夫、入沢康夫、富岡多惠子、谷川俊太郎、天沢退二郎、長田弘、鈴木志郎康、(司会・菅谷規矩雄、渡辺武信)らとともに出席。
六月、「現代詩手帖」特集「入沢康夫」に「「わが出雲・わが鎮魂」への伴奏的称讃」を発表。
九月、『エルンスト/ミロ/ダリ』(河出書房)に評伝・解説。
十月、詩「壜とコップのある」を「現代詩手帖」に発表。また同誌「瀧口修造」特集のための座談会に粟津則雄、飯島耕一、武満徹とともに出席。
十二月、「文学」特集「詩の言葉」に「自分の詩に言葉がどんな風に出現し、それをどんな風に文字という記号の中に定着したか」を語る評論「言葉の出現」を発表。
この年、飯島耕一と共訳でブラッサイ『語るピカソ』をみすず書房から刊行。

一九六九年(昭和四十四)
一月、「芸術新潮」に「現代作家の伝統」として現代日本の美術家十二人論を連載開始(同年十二月まで)。
二月、詩人論のみを集めた評論集『現代詩人論』を角川書店より刊行。現代日本詩集『言語空間の探検』(學藝書林)を編集解説。創作「金色の夢」を「婦人の友」に執筆。
四月、「國學」に「日本の詩歌の鑑賞・第一回」として「森外の『夢かたり』」を執筆、以後、古典、現代詩をめぐる評論を断続的に連載。同月、「昭和詩の問題」、思潮社版『現代詩大系』(全七巻)の解説として書かれた「戦後詩概観」を含む評論集『蕩児の家系』を思潮社より刊行。
六月、同書により第七回歴程賞を受賞。同月、中央公論社より、芸術時評を中心とした評論集『肉眼の思想』を刊行。同月「金色の夢」放送劇としてNHKより放送。
七月、復刊「ユリイカ」第一号に「断章1」を執筆。以後、独特なスタイルによる批評を展開し、一九七四年十二月まで連載。同月「櫂」十八号に詩「あかつき葉っぱが生きている」を発表。同月、思潮社より現代詩文庫24『大岡信詩集』を刊行。作品論・渡辺武信、詩人論・東野芳明。同月、新潮社版・現代詩人全集34「昭和詩集二」を編集解説。同月、放送劇「」を大きく改作した戯曲「あだしの」が劇団「雲」によって紀伊国屋ホールで上演される。
八月、「本の手帖」八三号に「瀧口修造に捧げる一九六九年六月の短詩」発表。
九月、「現代詩手帖」に詩「わが妻のアドレッセンスを憶いおこす詩」発表。
十二月、散文詩「彼女の薫る肉体」を田村隆一編集の季刊「都市」創刊号に発表。

一九七〇年(昭和四十五)
二月、「窪田空穂論」その1として「窪田空穂の出発」を「文学」に、以後、四月「受洗と初期詩歌」、六月「歌論の構造」、十月「古典批評」と空穂論を書き継ぐ。
九月、ブルトン「溶ける魚」(人文書院『アンドレ・ブルトン集成』3)の翻訳が刊行される。
十月、明治大学教授に就任。
この年、安東次男、丸谷才一、川口澄子らと連句の会をはじめる。

一九七一年(昭和四十六)
三月、ステレオドラマ「イグドラジルの樹」NHK・FMより放送。
四月、「季刊エナジー」29号の特集「リズムと文化」を小泉文夫とともに監修、渥美和彦と対談。
五月、「あだしの」のテーマに深く関わる散文詩『彼女の薫る肉体』を湯川書房より刊行、一九六九年の同名の作を第一章とする。
八月、調布市二七二九・一八に転居。
九月、五月から執筆を続けた評伝『紀貫之』を筑摩書房「日本詩人選」の第七巻として刊行、子規によって弾劾されたことが決定的な意味をもった貫之と「古今集」に今日的意味を与え、蘇らせる。「私はこの『紀貫之』を読みすすめながら大岡氏と窪田空穂との濃密な血脈を終始感じ取っていた。もちろん氏の貫之論は氏の貫之に乗り移っての詩人論であるが、同時にそれをかくも独自の個性あるものたらしめた空穂の偉大さをも私に実感させたということ、またこの本に領略された紀貫之の今日的な問題性が、きわめて新鮮な達成であるにかかわらず、なおあれこれと幾多の別様の貫之論のあるべきイメージを具体的に予想させる、と私が書いても、決して大岡氏のこの仕事を貶することにはならないであろう。とにかくいま私は氏のこの本に対してひたすら頌をささげたい思いである」(秋山虔・『紀貫之』書評「國學」一九七二年一月)。
十月、詩論を中心とする評論集『言葉の出現』を晶文社より刊行。同月、「國學」で粟津則雄と対談、「戦後詩とは何か」。
十一月、「ユリイカ」で遠山啓と対談、「共鳴する詩と自然科学」。

一九七二年(昭和四十七)
一月、「現代詩手帖」に詩「群青の哀歌」(後「燈台へ!」と改題して『悲歌と祝』に収録される)を発表。また同月、「ユリイカ」連載の断章を集めた『彩耳記』を青土社より刊行。以後順次『狩月記』(一九七三年九月)、『星客集』(一九七五年三月)、『年魚集』(一九七六年一月)とまとめる。「随想仕立てのこの新工夫によって、われわれの文芸時評にいつもつきまとう何か窮屈な感じ、肩ひじ怒らせた調子、やりきれないくらい孤独で寂しい性格、小林秀雄とマルクスによって決定的に強制された枠組を、じつにやすやすと乗り越えてしまった」(丸谷才一・文芸時評)。同月二十四日から東京日本橋南画廊において、加納光於との合作「アララットの船あるいは空の蜜」(詩集『砂の嘴・まわる液体』を加納光於作の箱状オブジェのなかに密封装置)が公開される(二月五日まで)。同月、『ボナール/マティス』(集英社)に評伝・解説を執筆。
二月、「ユリイカ」に詩「水の皮・瑪瑙の縞」(「水の皮と種子のある詩」と改題して『悲歌と祝』に収録)を発表。
三月、『紀貫之』により読売文学賞を受賞。
四月、「芸術新潮」連載のものを主に評論集『現代美術に生きる伝統』を新潮社より刊行。
五月、晶文社版「現代詩論」第七巻として『大岡信・天沢退二郎』を刊行、初期詩論を主に集める。同月、加納光於の挿画・造本による散文詩『螺旋都市』(九十七部)を私家版として刊行。
六月、詩集『透視図法・夏のための』を書肆山田より刊行。「ユリイカ」連載「断章」に発表された夢の記述をそのまま散文詩「透視図法・夏のための」として収録する。「この詩集では、作者大岡氏が、これまでの氏の詩集に見られた「若々しい情感」と「理知的な構成力」との《適度な》バランスを、かなり意識的にくずしはじめ、「情感」に代えるのに一種の「狂気」のごときものをもってしているところに大きな意味があると感じられる。また、ここには、いくつかの逆説的な賭けが試みられている」(入沢康夫「詩の逆説性」)。
七月、詩「木霊と鏡」(「四季の木霊」と改題して『悲歌と祝』に収録)を「文芸」に発表。戯曲集『あだしの』(「写楽はどこへ行った」を含む)を小沢書店より刊行。同月、「季刊エナジー」33号の特集「日本の色」を監修、磯崎新と対談。なお同号には『紀貫之』と『うたげと孤心』を結ぶと思われるエッセイ「古典詩歌の色・・『色離れ』をめぐって」も掲載されている。
八月、「無限」二十九号、西脇順三郎特集の座談会に、西脇順三郎、田村隆一、入沢康夫と出席。「朝日新聞」に流域紀行「熊野川」を連載、挿画・加納光於。
十月、「ユリイカ」特集「現代詩の実験」に詩「豊饒記」ほか、および藤原俊成の歌を現代詩に訳した作品「とこしへの秋の歌」などを発表。同月、「櫂」二十号に櫂同人との「連詩」の試み。同じく十月、『ゴーギャン』(中央公論社)に評伝・解説を執筆。
十一月、「國學」連載の「日本詩歌の鑑賞」を主とした評論集『たちばなの夢』を新潮社より刊行。

一九七三年(昭和四十八)
一月、「ユリイカ」で武満徹と、四月、「現代思想」で寺田透と、五月、「國學」で安東次男とそれぞれ対談。
六月、「現代詩手帖」特集「谷川俊太郎」の座談会に飯島耕一、入沢康夫とともに出席。同月、「季刊すばる」に「うたげと孤心」のテーマのもとに和歌文学と日本的心性の問題に新しい光をあてる連載を執筆開始。毎号順を追って「歌と物語と批評」「贈答と機知と奇想」「公子と浮かれ女」「帝王と遊君」「今様狂いと古典主義」「狂言綺言と信仰」(一九七四年九月まで)。
八月、「ユリイカ」九月号、特集「吉岡実」のために吉岡実と対談、「卵型の世界から」。また同月、美術評論を中心とした評論集『装飾と非装飾』を晶文社より刊行。
九月、「ユリイカ」連載の文学的断章集第二冊『狩月記』を青土社より刊行。同月、「ユリイカ」特集「現代詩の実験」に詩「霧のなかから出現する船のための頌歌」を発表。
十月、『南蛮_(tm)風』(平凡社)に解説を執筆。
十一月、谷川俊太郎特別編集による「ユリイカ」増刊号「谷川俊太郎による谷川俊太郎」で馬場礼子のロールシャッハ・テストを受け、対談。

一九七四年(昭和四十九)
一月、前年十一月に死去した中学時代からの友人重田徳を追悼し、詩「薤露歌」を「現代詩手帖」に発表、四月、五月、六月の「ユリイカ」連載の「断章」にその経緯と回想を記す。
三月、石川淳、安東次男、丸谷才一、川口澄子との歌仙「鳴る音に…」を「図書」に発表、座談会を併録。
五月、「國學」で梅原猛と対談、「万葉集をどう読むか」。
八月、新潮美術文庫『ドガ』に解説。
九月、「俳句」で丸谷才一と、十月、「國學」でドナルド・キーンと対談。
十月、書下し詩人論『今日も旅ゆく・・若山牧水紀行』を平凡社より刊行。同月、「現代詩手帖」瀧口修造特集号に詩「地球人Tの四つの小さな肖像画」を発表、座談会に出席。同じく十月、脚本を担当した実相寺昭雄監督作品『あさき夢みし』ATG系で上映。
十一月、「文芸」に同作品脚本を掲載。
十二月、潤色を担当した演劇『トロイアの女』を早稲田小劇場により岩波ホールで上演、演出・鈴木忠志。同月、「ユリイカ」特集「現代詩の実験」に詩「声が極と極に立ちのぼるとき言語が幻語をかたる」、および、安東次男、丸谷才一らとの歌仙「鳥の道の巻」「だらだら坂の巻」を発表。この歌仙をめぐる座談会は翌一九七五年五月「ユリイカ」に掲載される。同じく十二月、「朝日新聞」文芸時評を担当、一九七七年一月まで継続する。同月より「ユリイカ」連載の「断章」を一時中断する。

一九七五年(昭和五十)
一月、「現代詩手帖」で鈴木忠志と、「国際文化交流」でバーナード・リーチと対談。
三月、「ユリイカ」連載の文学的断章集第三冊『星客集』を青土社より刊行。
四月、「岡倉天心」執筆のため茨城県五浦へ旅行。同月、草月出版より古今東西の女性をめぐる随筆集『風の花嫁たち』を刊行。
五月、装いを新たにした「エナジー」の対話シリーズの第一回として、谷川俊太郎との対話『詩の誕生』(のち読売選書に収録)をエッソ・スタンダード石油株式会社より刊行。「大岡の詩からおれが思い浮べる言葉の一つは「眩暈」なんだ。眩暈状態で非常に深いところへ入っていこうとしているように見える。あるいは眩暈状態が好きなんだね。ところが僕には眩暈的な遊び方てのがないし、眩暈は僕にとっていやなもの、排除したいものでしかない」(谷川俊太郎・同書)。
七月、「現代詩手帖」において鮎川信夫、吉本隆明とともに連続討議「近代詩再検討」をはじめる(隔月、四回)。同月、花神社より書評集『本が書架を歩みでるとき』を刊行。同月、「ユリイカ」に「加納光於論」を執筆。
八月、「現代詩手帖」特集「鮎川信夫と戦後詩30年」の討議に北村太郎、菅野昭正、長田弘とともに出席、「生の経験と感情」。
九月、「現代詩手帖」特集「谷川俊太郎」に詩と昭和二十九年当時の未発表原稿「谷川俊太郎小論」を寄稿。同月、詩集『星のりの下で』
を書肆山田より加納光於の装本により刊行。また同月、「國學」で「吉本隆明と大岡信」を特集、吉本隆明との対談「古典をどう読んできたか」が掲載される。同月、スタロバンスキー『道化のような芸術家の肖像』を新潮社「創造の小径」叢書の一冊として翻訳。同月、朝日新聞社「朝日評伝選4」として書下し評伝『岡倉天心』を刊行、詩人としての天心を論じ、新しい天心像を提示する。本書は吉岡実にうながされて「ちくま」に書いた「五浦行」からはじまる。「真実というものは不思議に人の心に通じる。いかに矛盾に充ちていようとも、自ずから人に通じる力を持つ。この評伝が、いままでの天心に関する書物のどれよりも、天心像の深い彫琢になり得たのは、少くともその一つは、『白狐』に関する大岡氏の心情的、文学的、また語学的にも深く洞察のゆきとどいた紹介と、いま一つ、それに重なり合うような、天心最晩年の、死の前年から最期のときまで継続した「宝石の声のひと」インドのカルカッタに住む女流詩人プリヤムヴァダ・デーヴィ・バネルジー夫人に対する心魂を傾けた愛の紹介にあるといってもいいと思う」(大原富枝『大岡信著作集』月報)。
十二月、毎日新聞社より叢書「現代の視角」2としてエッセイ集『青き麦萌ゆ』(のち中公文庫に収録)を刊行。同月、「ユリイカ」特集「現代詩の実験」に詩「少年」を発表、鈴木志郎康と対談。

一九七六年(昭和五十一)
一月、「現代詩手帖」に詩「星空の力」、「文芸展望」十二号に詩「丘のうなじ」、三月、「新潮」に詩「はじめてからだを」を発表し、一連が二行よりなる新詩風を展開する。一月、「ユリイカ」連載の文学的断章集第四冊『年魚集』を青土社より刊行。
四月、「ユリイカ」連載「断章」を再開する。
五月、「現代詩手帖」特集「岡倉天心」で高階秀爾と対談、「サンボリズムと遊び」。
六月、『定本・高浜虚子全集』月報に連載した文章を中心にするエッセイ集『子規・虚子』を花神社より刊行。ロッテルダム国際詩祭に翌月まで参加、スペイン、フランスを旅行。
七月、「季刊エナジー」の特集を単行本とした編著『日本の色』を朝日新聞社より刊行。
八月、「現代詩手帖」に詩「空気に腰掛けはあつた?」を発表。
十月、「現代詩手帖」特集「蒲原有明」において寺田透、中村真一郎とともに座談会に出席、「象徴と内部への侵入」。
十一月、青土社より詩集『悲歌と祝』を刊行。同詩集以降、詩作品の表記が旧仮名遣いに統一される。「大岡氏はその詩集で幾つかの古歌、或は今日の俳諧の句を選んでこれと並行して大岡氏自身の詩を掲げてゐる。それはその古歌や句の註釈でもなければそれに就ての感想でもなくて氏がもとの言葉から得たものが今度は氏の言葉の形を与へられて詩をなしてゐるのである。曾ては我が国でも本歌取りといふことが行はれた。これも言葉の幅、その響が達する範囲とこれをどこまで耳に受け留めるかの問題であつて耳に伝はつたことは改めて言葉を生じさせることが出来る」(吉田健一・『悲歌と祝』書評)。同月、「ユリイカ」臨時増刊「現代詩の実験」に詩「円盤上の野人」「女は広場に催眠術をかけた」(後「いつも夢にみる女」と改題して『春 少女に』に収録)を発表。
十二月、「ユリイカ」で「大岡信 詩と批評の現在」を特集、同誌に未発表初期詩を発表し、インタビューに応じる。未発表初期詩は「方舟」を増補、改訂して青土社版著作集第三巻「水底吹笛」に収録される。
十一月から十二月まで、日本作家代表団の一員として井上靖、清岡卓行、邦生らとともに中国訪問。

一九七七年(昭和五十二)
一月、「現代詩手帖」に詩「きみはぼくのとなりだつた」を発表。また同月より、「新潮」にて「古歌新詩」の連載をはじめる。一月末よりポンピドゥー・センター開館式出席のため渡仏、二月スペイン経由で帰国。
二月、青土社より『大岡信著作集』全十五巻の刊行開始(翌年四月完結)。担当編集者は、高橋順子だった。同月、思潮社より、六八年思潮社より刊行の綜合詩集の増補版『大岡信詩集』全一巻を刊行。
四月、思潮社より評論集『昭和詩史』を刊行。
五月、朝日新聞社より同紙連載の文芸時評をまとめた『現代文学・地平と内景』を刊行。同月、「海」現代詩特集に詩「光のくだもの」ほかを発表。
六月、岩波新書の一冊として詩との出会いをめぐる回想的記述『詩への架橋』を刊行。六月から七月まで、『トロイアの女』欧州公演に同行、パリ、ローマ。
七月、主に「國學」に執筆した詩人論を収める評論集『明治・大正・昭和の詩人たち』を新潮社より刊行。
八月、「現代詩手帖」に詩「馬具をつけた美少女」を発表。
九月、「エナジー」の対話シリーズ第八回として、谷川俊太郎との対話『批評の生理』をエッソ・スタンダード石油株式会社より刊行、それぞれの最新作を批評しあう(のち思潮社より再刊)。同月、「図書」で石川淳と対談、「我鬼先生のこと」。
十月、「文学」で木下順二と対談、「詩・劇・ことば」。十月二十一日、宮川淳死去。
十一月、「文芸」現代詩特集に詩「観想曲」ほかを発表。同月、「ユリイカ」で小島信夫と対談「愛の作家夏目漱石」、また「現代詩手帖」で安藤元雄、鈴木志郎康、清水哲男とともに座談会「詩意識の変容と言葉のありか」。
十二月、「ユリイカ」特集「現代詩の実験」に詩「詩と人生」「神の生誕」を発表。

一九七八年(昭和五十三)
一月、「朝日新聞」に詩「春 少女に」を発表。同月、『新選大岡信詩集』を思潮社より刊行。
二月、集英社より『うたげと孤心』刊行。「大岡氏の著述がわれわれに語りかけているものは、ただたんに「一首の歌を孤独な心のただ一度限りの叫びと考えたがる近代人の眼」に生ずる古典詩歌の鑑賞上の偏差の訂正だけではない。それはむしろ、詩歌の、いや、およそ文学というものの必要条件である孤独がいかにその反対物から規定されているかについての文学史上の洞見であるというべきであろう」(野口武彦・『うたげと孤心』書評「日本読書新聞」)。
五月、講談社より紀行文集『片雲の風』刊行。
七月、『子どもの館』で谷川俊太郎らと「小学校一年国語教科書」を試作(福音館書店より刊行)。
八月、「現代詩手帖」に詩「げに懐かしい曇天」を発表。
九月から十月まで、ニューヨークのジャパン・ソサエティの招待で渡米。
十月、「ユリイカ」臨時増刊「現代詩の実験」に「彫像はかく語つた」を発表。同月、「國學」特集「萩原朔太郎・詩の生理」で那珂太郎と対談、「朔太郎の新しい貌」。同月、花神社よりエッセイ集『ことばの力』刊行。
十一月、「エピステーメー」に詩「死んだ宮川淳を呼びだす独りごと」を発表。同月、青土社より文学的断章『花抄』を刊行。
十二月、詩集『春 少女に』を書肆山田より刊行。

一九七九年(昭和五十四)
一月、「現代詩手帖」に「見えないまち」の標題のもとに詩を連載しはじめる。同月二十五日、「朝日新聞」に「折々のうた」を連載開始。「朝日新聞学芸部からこのコラム連載の話があったのは、開始前年の暮秋のころだった。引用詩句も含めて二百字ほどのスペースで連日詩歌の鑑賞をすること、という以外には新聞社側にも成案はなかったようだが、話を持込まれた私にとっては、これは初手から無理難題と思われた。辞退と要請が繰返されたあげくに私は折れ、採りあげる作品を短歌、俳句に限らないということを条件に始めることにした」(『折々のうた』第一冊あとがき)。
三月二十日、志水楠男死去。
五月、アメリカ再訪。同じく五月、『四季の歌 恋の歌』を筑摩書房より刊行。
七月一日、瀧口修造死去。「現代詩手帖」八月号に瀧口修造を追悼する詩「西落合迷宮」を執筆。
十月、「現代詩手帖」特集「瀧口修造」で武満徹、岡田彦とともに座談会、「〈絶対〉への眼差し」。同月、『アメリカ草枕』を岩波書店より刊行。『春 少女に』で無限賞を受賞。
十二月、調布市深大寺七二九・二一に転居。

一九八〇年(昭和五十五)
三月、『現代詩読本 瀧口修造』のための座談会に渋沢孝輔、岡田彦とともに出席。同月『折々のうた』一年分を岩波新書の一冊として岩波書店より刊行。
八月、青土社より文学的断章『宇滴集』刊行。
九月、講談社より講演集『詩歌折々の話』刊行。
十月、「現代詩手帖」特集「吉岡実」に詩「秋から春へ・贋作吉岡実習作展」を発表。同月、花神社よりエッセイ集『詩とことば』刊行。
十一月、「ユリイカ」臨時増刊「現代詩の実験」に詩「多古鼻感情旅行」を発表。同月、中央公論社より『詩の日本語』刊。同月、朝日新聞連載『折々のうた』で菊池寛賞を受賞。
この年、岩波書店刊『叢書・文化の現在』に編集委員として参加。

一九八一年(昭和五十六)
一月、「現代詩手帖」に詩「サキの沼津」ほかを発表し、連載詩「見えないまち」を完結する。
二月、「文芸」に詩「西部」を発表。同月、『続折々のうた』を岩波新書の一冊として刊行。
三月、「現代詩手帖」特集「大岡信の現在」のために、入沢康夫と相互模作を試み、大岡は詩「潜戸へ・潜戸から――二人の死者のための四章」(のち入沢康夫の詩集『死者たちの群がる風景』に収録)を、入沢は「四悪趣府(贋作・見えないまち)」を発表、また作品の経緯について入沢康夫と長時間の対談を行う、「〈引用〉と〈オリジナリティ〉」。同月、石川淳、丸谷才一、安東次男との共著『歌仙』を青土社より刊行。同月下旬より、明治大学より一年間の休暇。アメリカを経てヨーロッパへ、ほぼ半年の間パリに滞在する。「折々のうた」はそのため一年間中断。
ヨーロッパ滞在中の五月、講談社より講演集『《折々のうた》の世界』を、青土社より評論集『現代の詩人たち(上・下)』を刊行。
六月、文藝春秋社より対談集『詩歌歴遊』を刊行。
七月、思潮社より連載詩をまとめた詩集『水府 みえないまち』を刊行。
九月から「現代詩手帖」にて谷川俊太郎との往復書簡をはじめる(一九八二年まで)。同じく九月、筑摩書房より『萩原朔太郎』を刊行。同月、パリからアメリカのミシガンに移るが、下旬、父の病状悪化を知り急ぎ帰国。帰国直後の十月一日、大岡博死去。葬儀を終えて再びアメリカへ向かう。
十一月、「ユリイカ」特集「現代詩の実験」に詩「秋の乾杯」を発表。
十二月、中央公論社より美術論集『現世に謳う夢』を刊行。
この年九月から十二月まで、ミシガン州立オークランド大学英文学部に客員教授として招かれ、同大学をはじめアメリカやカナダの大学で講演と詩の朗読を行う。また同大学の教授トマス・フィッツシモンズと共同して英訳選詩集 “A String Around Autumn” の決定稿を作る過程が、連詩制作に発展する。

一九八二年(昭和五十七)
二月上旬帰国。「現代詩手帖」に詩「巴里情景集」を発表。
三月、詩集の英訳者であるトマス・フィッツシモンズとの連詩「揺れる鏡の夜明け」を「新潮」に発表。
四月、書肆風の薔薇より『加納光於論』を刊行。
六月五日、小千谷総合病院で西脇順三郎逝去。同月、『詩の思想』を、また、父博の一周忌にあわせ遺稿歌集『春の鷺』を編集し、それぞれ花神社より刊行。
七月、「現代詩手帖」で吉岡実、那珂太郎、入沢康夫、鍵谷幸信と西脇順三郎追悼座談会、「比類ない詩的存在」。同月、富山県立美術館「瀧口修造と戦後美術」展カタログのために「詩人瀧口修造」執筆、また同展覧会にて記念講演。
八月、「現代詩手帖」に詩「草府にて」を発表。
十月、「現代詩手帖」で谷川俊太郎、武満徹との座談会。
十一月、「現代詩手帖」特集「詩はこれでいいのか」の座談会に谷川俊太郎、吉原幸子とともに出席。
十二月、筑摩書房よりフィッツシモンズとの連詩『揺れる鏡の夜明け』を刊行。同じく十二月、「ユリイカ」特集「現代詩の実験」に詩「楸邨句ラッキー・セブン、曲解と唱和」を発表。
この年、英訳詩集 “A String Around Autumn”(tra-
nslated by Thomas Fitzsimmons) を Oakland
University, Katydid Books より刊行。

一九八三年(昭和五十八)
一月、文学的断章『マドンナの巨眼』を青土社より、また対談集『言葉という場所』を思潮社より刊行。
四月、対談集『詩歌の読み方』を思潮社より刊行。
五月、「現代の詩人」第十一巻『大岡信』を中央公論社より刊行。同月、現代文学シンポジウム出席のためストックホルムへ。帰路、デンマークのルイジアナ美術館見学、館長のクヌート・イエンセンと旧交を暖める。
六月、読売新聞社より『短歌・俳句の発見』を刊行。
七月八日、高柳重信急逝。荻窪の願泉寺で仮通夜、密葬。
八月、「現代詩手帖」に詩「七夕恋歌」を発表。同月、岩波書店より評論集『表現における近代』を刊行。
九月、「現代詩手帖」に詩「わがひとa・b」を発表。同月、ゆまにてより『古典のこころ』を刊行。
十月、平凡社より『大岡信が語る「お伽草子」』を刊行。
十一月、西武美術館「菅井汲展」にて菅井と共同でデモンストレーション「一時間半の遭遇」を制作する。同月、丸谷才一、井上ひさしらとの共著『酔ひどれ歌仙』を青土社より刊行。ニューヨークのカーネギーホールで武満徹作曲による「揺れる鏡の夜明け」が演奏される。

一九八四年(昭和五十九)
一月、「現代詩手帖」に詩「山羊を飼ふ」を発表。
三月、谷川俊太郎との共著『往復書簡 詩と世界の間で』を思潮社より刊行。
五月、「ユリイカ」にて「詩とはなにか」の連載詩を開始。同月、「NHK市民大学」で「詩の発見」を放映(毎週一回、以後三ヶ月)。
七月、『日本語の豊かな使い手になるために』を太郎次郎社より刊行。
八月、「現代詩手帖」でチェスワフ・ミウォシュと往復書簡(翻訳者工藤幸雄)。
九月、「現代詩手帖」に詩「溜息と怒りのうた」発表。
十月、思潮社より詩集『草府にて』を、筑摩書房より『水都紀行 スウェーデン・デンマークとの出会い』を刊行。
十一月、来日したオクタビオ・パス夫妻のお別れ会に出席、飯島耕一、吉岡実らとともにアスベスト館に招かれる。
十二月、「國學」特集「詩集とは何か」で岡井隆と対談。同月、長年にわたる瀧口修造との交流、往復書簡、講演の記録をおさめた『ミクロコスモス 瀧口修造』をみすず書房より刊行。また同月、磯崎新、大江健三郎、武満徹、中村雄二郎、山口昌男と「季刊へるめす」(岩波書店)を創刊、同誌に連載詩「ぬばたまの夜、天の掃除器せまつてくる」を開始する(八七年三月まで)。

一九八五年(昭和六十)
一月、「現代詩手帖」に吉岡実、渋沢孝輔、吉増剛造とともにオクタビオ・パスを囲む座談会。
四月、『万葉集』を岩波書店より、『楸邨・龍太』を花神社より刊行。銕仙会主催の「フィンランドの詩と文学の夕べ」で司会をする。出演者ニルス・アスラク・ヴァルケアパー(通称アイル)、カイ・ニエミエン、通訳大倉純一郎。
五月、『抽象絵画への招待』を岩波書店より刊行。
六月、ベルリン世界文化フェスティバル「ホリツェンテ85」、ロッテルダム国際詩祭、パリ日仏文化サミットに出席するため渡欧。
七月、韓国大邱で開催の韓国日語日文学会で「日本詩歌の展開」を講演。同月、『恋の歌』を講談社より刊行。
八月、谷川俊太郎との対談集『現代詩入門』を中央公論社より刊行。
十月、詩集『詩とはなにか』を青土社より刊行。

一九八六年(昭和六十一)
一月、「現代詩手帖」に「そのやうな女たちよ、どこにゐるのか」ほか一を発表。ニューヨークの国際ペン大会に出席。
三月、「現代詩手帖」においてジャニーン・バイチマンと往復書簡による対論を行なう、「伝統をめぐって」。
六月、「ポエジー86」(フランス)誌上で大岡信特集。
六月から七月、ハンブルク国際ペン大会にゲストとして参加、詩朗読。つづいてロッテルダム国際詩祭、フィンランドのクフモ国際室内楽フェスティバル、フランスのアヴィニョン国際演劇祭、デンマークのルイジアナ美術館を回り、詩朗読や講演を行う。同月、オランダ語訳選詩集『遊星の寝返りの下で』(ノリコ・デ・フローメン訳)刊行。
八月、トマス・フィッツシモンズ著『日本 合わせ鏡の贈りもの』(大岡玲と共訳)を岩波書店より刊行。
九月、『うたのある風景』を日本経済新聞社より、『詩の真珠・連詩』(川崎洋、カリン・キヴス、グントラム・フェスパーと共著)をフランツグレーノ書店より刊行。大岡訳の「漂炎」(ジャニーン・バイチマン作)を大本山増上寺で上演。
十月十七日、鮎川信夫急逝。「現代詩手帖」特集「日本モダニズムの再検討」で阿部良雄、多木浩二と鼎談。
十一月、「現代詩手帖」でインタビューを受ける、「あらゆる詩歌が場を得ている言語の共和国へ」。同月、井上靖、清岡卓行とともに編集に加わった仏訳『日本現代詩選』がガリマール書店より刊行される。同月、ジュリエット・グレコが来日、シャンソン「炎のうた」(大岡作)を披露。
十二月、「現代詩手帖」で入沢康夫と対談、「拡散する時代と詩的実験の根底」。同月、ポンピドゥー美術館の「前衛芸術の日本」展言語部門でジャン・ピエール・ファイユ、アラン・ジュフロアらと公開の「連詩」制作と講演、あわせてソルボンヌ大学で「イロ(色)の詩学」を講演。

一九八七年(昭和六十二)
一月、「現代詩手帖」に詩「楸邨句交響十二章」を発表。
二月、「現代詩手帖」特集「鮎川信夫の〈戦後〉」で三浦雅士と対談、「〈超越〉と〈不在〉の逆説」。
三月、明治大学教授を退く。
四月、「ホリツェンテ85」でのK・キヴス、川崎洋、G・フェスパーらとの『ヴァンゼー連詩』およびその記録『ヨーロッパで連詩を巻く』を岩波書店より刊行。
五月、詩歌総合誌「季刊花神」(花神社)を編集創刊。同月、パリ、ミラノ、ローマなどヨーロッパ各地を講演旅行。
六月、「季刊へるめす」に「うつしの美学」を連載。同月、ロッテルダム国際詩祭に参加、オランダ詩人三人と前年開始した「ロッテルダム連詩」三十六番まで完成。
八月五日、澁澤龍死去。
九月、「現代詩手帖」に澁澤龍を追悼する詩「少年のおもかげ永遠に」を発表。
九月、評論『窪田空穂論』、十月、詩集『ぬばたまの夜、天の掃除器せまつてくる』をともに岩波書店より刊行。
十月、「現代詩手帖」特集「T・S・エリオット」で鍵谷幸信と対談、「革新する伝統主義者、エリオット」。
十一月、谷川俊太郎とベルリン芸術祭に招待され、H・C・アルトマン、オスカー・パスティオールと連詩。同月、『折々のうた』文芸カセットを岩波書店・NHKより刊行。
一九八八年(昭和六十三)
一月、『ギュスターヴ・モロー 夢のとりで』をパルコ出版より刊行。
四月、東京芸術大学教授に就任。
六月、川崎展宏との対話『俳句の世界』を富士見書房より刊行。同月、大岡翻案のオルフ作カンタータ「カルミナ・ブラナ」を小澤征爾指揮の新日本フィルが演奏。
七月、『現代詩読本 谷川俊太郎のコスモロジー』の討議に三浦雅士、佐々木幹郎とともに出席、代表作50を選ぶ。同月、石川淳、丸谷才一、杉本秀太郎との共著『浅酌歌仙』を集英社より刊行。
八月、深瀬サキ作『坂東修羅縁起譚』(市川團十郎主演)国立劇場にて、上演。
十月、山中温泉にて、井上ひさし、丸谷才一と歌仙「菊のやどの巻」を巻く。
十一月、随筆集『人生の黄金時間』を日本経済新聞社より刊行。同月、一柳慧作曲『交響曲ベルリン連詩』サントリー・ホールで初演。
十二月、「現代詩手帖」で城戸朱理によるインタビューに答える、「「び」であり「び」である世界を書きたい」。

一九八九年(昭和六十四/平成元)
二月、「國學」特集「俳句―句集を考える」で森澄雄と対談。同月、『日本語相談』第一冊(大野晋・丸谷才一・井上ひさしと共著)を朝日新聞社より刊行。
三月、ベルリンでの二回目の連詩を『ファザーネン通りの縄梯子・・ベルリン連詩』の題で岩波書店より刊行。参加者谷川俊太郎、H・C・アルトマン、オスカー・パスティオール、大岡信、翻訳者福沢啓臣。
四月、詩集『故郷の水へのメッセージ』を花神社より刊行。日本ペンクラブ第十一代会長に選ばれる。
五月、銕仙会能楽研究所でジョン・アッシュベリーの朗読会の司会・訳詩朗読。同月、長男玲『黄昏のストーム・シーディング』にて三島由紀夫賞受賞。
七月、フランス、イタリア、スイス、フィンランド、スウェーデンを回り、ローマで講演、北欧では地唄舞公演の芸術顧問として日本の舞の特質につき講演。ヘルシンキでフィンランドの三人の詩人(カイ・ニエミネン、ラッセー・フルデーン、ニルス・アスラク・ヴァルケアパー、翻訳者大倉純一郎)と連詩。同月、フランス芸術文化勲章を受ける。
八月、サントリー文化フォーラムで詩を朗読。同月、岩波書店より『詩人・菅原道真』を刊行。「本書の指摘で重要なのは、日本文学史の中では、「映し」、「写し」よりも「移し」の方により高い価値が置かれていたらしい、という指摘である。だから、写実は影が薄いのだといい、「本歌取り」から「俳諧」の付合まで、この「移し」の原理の実践例が詩歌史の潮流を形成してきたのだという。「写し」より「移し」が主流なのだ。刺激的、かつ魅力的な仮説である。(…)道真が中国詩からのいわば空間的「移し」を考えていた時期と接するようにして、紀貫之は前代の和歌からの時間的「移し」に挑戦していた。文学史の曲り角である。大岡さんの視野には、現在も、文学がこうした大きな曲り角にさしかかっているという展望がおさめられていることが痛切にわかる本である」(佐佐木幸綱・『詩人・菅原道真』書評「波」一九八九年十一月)。
九月、『故郷の水へのメッセージ』により第七回現代詩花椿賞受賞。
十一月、高柳重信七回忌のために「船焼き捨てし船長へ 追悼」を「中央公論文芸特集」に発表。

一九九〇年(平成二)
一月、「現代詩手帖」に「クレーの店」他一を発表。長男玲、『表層生活』により第一○二回芥川賞を受賞。
二月、中国雑誌「世界文学」で大岡信特集。
三月、『永訣かくのごとくに候』を弘文堂より刊行。谷川俊太郎と共に銕仙会能楽研究所を舞台に隔月開催の「銕仙朗読会」を九二年まで組織し司会。同月、『詩人・菅原道真』により芸術選奨文部大臣賞を受賞。
四月、横笛奏者赤尾三千子の委嘱による演劇的音楽作品「水炎伝説」(石井眞木作曲、実相寺昭雄演出)上演。
五月三十一日、吉岡実死去。六月二日、真願寺で本通夜。三日、告別式で弔辞、「吉岡実を送ることば」。
八月、ベルギーのリエージュ国際詩人祭で「日本の詩と禅思想」と題し講演。
十月、フランクフルト・ブックフェアに招待され、谷川俊太郎、ガブリエレ・エッカルト、ウリ・ベッカーと連詩制作・発表(翻訳者福沢啓臣)、バルセロナで「日本詩歌のABC」、フランスのリヨンの「ダンス劇場」で「日本の舞と西洋のダンス」につき講演。同月、パリでフランス芸術文化勲章シュヴァリエ受賞。
十一月、『現代詩読本 吉岡実』のための討議に入沢康夫、天沢退二郎、平出隆とともに出席。

一九九一年(平成三)
一月、「現代詩手帖」に詩「ある塔」発表。同月、『連詩の愉しみ』を岩波書店より刊行。ハワイ大学の国際翻訳者会議で「翻訳の創造性・・日本の場合」を冒頭特別講演。同月、みすず書房から『コレクション瀧口修造』刊行開始にあわせたシンポジウムに赤瀬川原平、秋山邦晴、巖谷國士とともに出席。
二月、NHKラジオで毎週一回ドラマアワー「大岡信シリーズ」放送。
三月、国立劇場特別企画の間宮芳生作曲、大岡信台本「飛倉戯画巻・・命蓮の鉢」の台本を書き、上演。
四月、英訳古典和歌論集“”The Colors of Poetry・Essays on Classic Japanese Verse” をKatydid Books より、五月、英訳選詩集 “Elegy and Bene-
diction” をJitsugetsu-kan より刊行。また同月、谷川賢作(シンセサイザー)、クリストファー遙盟(尺八)の生演奏と詩の朗読を交差させた一夜「音の間(ま)・ことの間(ま)」のイヴェント。
六月、スウェディッシュ・インスティチュートに招待され、ストックホルムで詩朗読・講演。フィンランドのラフティ国際作家会議の招請により、フィンランドの詩人カイ・ニエミネン、ラッセー・フルデーンとエストニアの詩人レイン・ラウドの三人で連詩制作・発表(翻訳者大倉純一郎)。ロッテルダム国際詩祭のポエトリー・オンザロード・プログラムに参加。同月、中国語訳『大岡信詩選』(蘭明訳)が三聨書店より刊行される。
七月、ハワイ大学サマー・セッションに招かれ、現地の詩人ジョゼフ・スタントン、ジーン・トヤマ、ウィン・テク・ルムの三人と連詩および講演と詩朗読。
八月、「現代詩手帖」に詩「黄鋭四彩(黄色い絵/青い絵/白い絵/赤い絵)」を発表。
十月、ゲイリー・スナイダーと銕仙会能楽研究所で朗読会。
十一月、『とくとく歌仙』を文芸春秋より刊行。シャンソン歌手ジュリエット・グレコと朝日ホールで公開対談。

一九九二年(平成四)
一月、「現代詩手帖」に詩「ある戦争のイメージ」「死の選択」を発表。
二月、朝日ホールで加藤楸邨の朝日賞記念公開対談、「俳句的対話」。
五月、詩集『地上楽園の午後』を花神社より、『折々のうた』(抄)、『日本和歌俳句賞析』の題での中国語訳(鄭民欽訳)が譯林出版社より刊行される。同月、国際交流基金の派遣で北京日本学研究センターの日中国交回復二○周年記念シンポジウムに参加、「日本詩歌の特質」と題して講演。
六月、『詩をよむ鍵』、八月、『美をひらく扉』を講談社より、随筆集『「忙即閑」を生きる』を日本経済新聞社より刊行。また同月、思潮社より『現代詩読本 大岡信』が刊行される。同誌において一柳慧と往復書簡を行い、一柳慧に捧げる詩「光のとりで 風の城」を発表。また谷川俊太郎、入沢康夫、三浦雅士の鼎談、「古典と同時代を往還するホットな詩精神」が代表作として五十の作品を選ぶ。
九月、『折々のうた総索引』を岩波新書の一冊として刊行。
十一月、小学館より随筆集『光のくだもの』を刊行。『折々のうた』十冊刊行記念として、谷川俊太郎、佐々木幹郎、高橋順子と連詩制作、国際文化会館で公開座談会。

一九九三年(平成五)
一月、「現代詩手帖」に「牧神の行方」を発表。
三月、フランス大使館でフランス政府より芸術文化勲章オフィシエ受章。同月、東京都文化賞受賞。同月、詩集『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞。同月、深瀬サキ戯曲集『思い出の則天武后』(講談社)刊。四月、東京芸術大学教授を辞し、客員教授となる。同月、日本ペンクラブ第十一代会長辞任。同月、パリ、ユネスコ本部にてユネスコ主催国際連詩の会。B・ノエル、A・ジュフロア(仏)、アドニス(レバノン)、バタチャリア(ベンガル)、ルタール(コンゴ)、および大岡。このユネスコ連詩は、一九九四年十一月刊の文芸季刊誌 CARAVANES 第四号に〈RENSHI〉として発表された。
五月、随筆集『人生の果樹園にて』を小学館より刊行。
六月、ロッテルダムのポエトリー・インタナショナル第二十四回大会の国際顧問会議に出席、将来の企画について討議し、また作品朗読。同月、チューリッヒにおいて、スイスの三言語(独・仏・伊)を代表する三人(ドイツ語のベアト・ブレヒビュール、フランス語のエリアーヌ・ヴェルネー、イタリア語のアルベルト・ネッシ)の詩人と、谷川俊太郎、大岡による連詩制作・発表。
七月三日、加藤楸邨死去。
八月、豊田市国際文化交流シンポジウムにおいて、フィンランド詩人カイ・ニエミネンと連詩制作・発表。
九月、ベルリン・フェスティバル公社主催の大展覧会「日本とヨーロッパ 一五四三・一九二九」開会式典にて記念講演。その一環として、E・エルプ、D・グリュンバイン、高橋順子と連詩制作・発表。滞独中に母・綾子の訃報を受ける。
十月、『私の万葉集 一』を講談社現代新書の一冊として刊行。同月、ハワイの三人の詩人 と制作した英語による連詩集 “What the Kite Thinks――a linked Poem by Makoto Ooka, Wing Tek Lum, Joseph Stanton and Jean Toyama” をハワイ大学出版部より刊行。同月、仏訳『折々のうた』”Po_mes de tous les jours “(traduit par Yves-Marie Allioux) がピキエ書店およびユネスコ共同出版により刊行される。同月、深瀬サキ作「思い出の則天武后」、白石加代子の一人芝居により、熱海MOA美術館能楽堂にて初演。
十一月、フランスでの「第二回ヴァルドマルヌ国際詩人ビエンナーレ」に参加、詩朗読。

一九九四年(平成六)
一月、「現代詩手帖」に「掌詩集」を発表。
三月、『折々のうた』の英訳 “A Poet’s Anthology;
The Range of Japanese Poetry”(translated by Janine Beichman)がKatydid Books より刊行される。
四月、『私の万葉集 二』を講談社現代新書から刊行。
六月、詩集『火の遺言』を花神社より刊行。
七月、「國學」八月号特集「大岡信 詩と知のダイナミズム」のために大江健三郎と対談、「詩の言葉、詩の思想」。
八月、「現代詩手帖」に詩「パスの庭で」発表。
九月、ベルリンのLettre International 誌九月号に「詩とはなにか」全二十四のMatthias Hoop訳掲載。
十月、『新折々のうた1』を岩波新書として、また『一九〇〇年前夜後朝譚 近代文芸の豊かさの秘密』を同じく岩波書店より刊行。パリのコレージュ・ド・フランスで連続講義”Poe´sie et Poe´tique du Japon Ancien” を十月各週木曜日に行なう。担当教授ベルナール・フランク氏、翻訳はドミニック・パルメ。同講義は好評につき、翌九五年十月にも一回追加される(計五回)。
十一月四日、サム・フランシス死去。

一九九五年(平成七)
一月、「現代詩手帖」に詩「くるみである私」「音楽の捧げ物」(「音楽である私」と改題して『光のとりで』に収録)「まだ使つたことのない言葉で書く 〈セクハラ〉」を発表。
二月、マドリードの Torremozas 書店よりスペイン語訳詩集 “Poemas”,(traduccion y notas, Yurihito Otsuki y Maria Pastor) 刊行。
三月、イェルサレム国際詩人祭出席、続いてスペインのマドリードに滞在。同月、「みずみずしい感性と知性による詩風で戦後詩の一典型を成し、評論でも伝統的な詩歌に光をあてて日本の美意識を分析してきた業績」により、第五十一回恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。
四月、「現代詩手帖」五月号、特集「「櫂」の功罪」のための座談会に川崎洋、谷川俊太郎とともに出席。
七月、『あなたに語る日本文学史 古代・中世/近世・近代』を新書館より、九月、『正岡子規――五つの入口』を岩波セミナーブックの一冊として岩波書店から刊行。
十月、『私の万葉集 三』を講談社現代新書として、『新折々のうた2』を岩波新書の一冊としてそれぞれ刊行。また同月、コレージュ・ド・フランス講義をパリのMaisonne´uve et Larose 社から刊行。同月、コレージュ・ド・フランス講義のあと、ノルウェーのオスロ大学で講演、ベルリン、パリを訪問する。
十一月、『オペラ 火の遺言』が浜離宮朝日ホール、水戸芸術館、名古屋しらかわホール、大阪いずみホール、倉敷市芸文館の五館で上演される。作曲一柳慧、ソプラノ豊田喜代美のモノ・オペラ。同時に台本(解説・粟津則雄)を朝日新聞社から刊行。また『大岡信の日本語相談』を朝日文芸文庫、『日本の詩歌 その骨組みと素肌』(コレージュ・ド・フランス講義の原文)を講談社より刊行。
十二月、G・ソロタレフ著『サンタクロースの辞典』邦訳を朝日新聞社より、中国語訳『大岡信散文詩選』(鄭民欽訳)を安徽文芸出版社より刊行。

一九九六年(平成八)
一月、「現代詩手帖」に詩「踊る男」発表。同月、『ことのは草』を世界文化社より刊行。また同月、フランス語訳詩集 “Propos sur le Vent & autre po_mes”(traduit par Dominique Palm´e)を 、´ed. Bra-
ndes より、英訳詩集 “Beneath the Sleepless Tossing of the Planets”(translated by Janine Bei-
chman)を Katydid Books より刊行。
二月、「現代詩手帖」で寺田透を追悼して濱田泰三と対談、「言語宇宙への参入」。二月二十日、武満徹死去。
三月、日中文化交流協会の派遣で三月二十九日より四月五日まで、北京、西安、上海訪問。上海では同地で客死した祖父延時の旧居を訪ねあてる。
五月、タイ国プーケット島での「短詩型シンポジウム」に参加。五月十四日、菅井汲死去。
七月、『ぐびじん草』を世界文化社より刊行。
八月、マケドニアのストルーガ詩祭で大賞の「金冠賞」を贈られ、同国を訪問。マケドニア語の『大岡信詩集』刊行、「現代詩手帖」に詩「詩――マケドニア語訳新詩集序詩」ほか四発表。
十月、「國學」十一月号特集「詩――文化テクストとして」の座談会に谷川俊太郎、天沢退二郎、野山嘉正(司会)とともに出席。
十一月、『しのび草』を世界文化社より刊行。

一九九七年(平成九)
一月、「現代詩手帖」に「故郷の地球にて」ほか詩四を発表。同月、『私の万葉集 四』を講談社現代新書として刊行。同月「長期にわたる『折々のうた』の連載と詩作、文芸批評における業績」により、一九九六年度朝日賞を受賞する。
二月二十六日、岡田彦死去。三月三日、告別式で弔辞。
六月、『みち草』を世界文化社より刊行。
七月二日、画家福島秀子死去。同月、「現代詩手帖」に「腐つた林檎」ほか詩四を発表。『日本のうたことば表現辞典1・2植物編』(監修)を遊子館より刊行。同月、アラビア語訳『折々のうた』刊行(M・オダイマ訳)、また “The Poetry and Poetics of Ancient Japan” (パリ、コレージュ・ド・フランス講義の英語訳、翻訳者トマス・フィッツシモンズ)が Katydid Production から刊行される。
十月、ドイツ語訳詩集 “Botschaft an die Wasser meiner Heimat-Gedichte 1951-1996″”(エドゥアルト・クロッペンシュタイン訳)が、 Edition q より刊行される。
十一月、『ことばが映す人生』を小学館より、詩集『光のとりで』を花神社より、『新折々のうた3』を岩波新書の一冊として、また岡倉天心=プリヤンバダ・デーヴィ・バネルジー往復書簡集『宝石の声なる人に』(大岡玲と共訳)を平凡社より刊行。同月、文化功労者賞顕彰。
十二月二十五日、中村真一郎死去。

一九九八年(平成十)
一月七日、「現代詩手帖」二月号、中村真一郎追悼のための座談会に加賀乙彦、安藤元雄とともに出席。また十二日、同誌によるインタビュー「わが現代詩五十年」に答える(同誌三月号「現代詩の臨界」に掲載)。『日本うたことば表現辞典3 動物編』(監修)を遊子館より、また『私の万葉集 五』を講談社現代新書の一冊として刊行。
二月、『しおり草』を世界文化社より刊行。二月八日、渋沢孝輔死去。十三日、告別式で弔辞。
三月、「現代詩手帖」に渋沢孝輔追悼文を寄せる。
四月、東京芸大奏楽堂開館記念演奏会に「オラトリオ 開眼会(大仏開眼)」を発表(野田暉行作曲)。
六月、『窪田空穂随筆集』編・解説を岩波文庫より刊行。
七月、男性合唱とピアノのための組曲『ハレー彗星独白』楽譜を音楽之友社より刊行(鈴木輝昭作曲)。
八月、「現代詩手帖」に「シャボン玉の唄」ほか詩三発表。同月、『続続・大岡信詩集』を思潮社現代詩文庫より刊行、詩人論・作品論=野沢啓、城戸朱理、永原孝道。同月、二十六日、田村隆一死去。三十一日、鎌倉妙本寺での告別式で弔辞。
十月、「現代詩手帖」特集「田村隆一から田村隆一へ」で吉増剛造、佐々木幹郎、長谷川龍生と追悼座談会、「壮烈な「労働」を続ける詩魂」。『新折々のうた4』を岩波新書の一冊として刊行。また同月、静岡県田方郡函南町畑毛温泉にて、英詩人チャールズ・トムリンソン、ジェームズ・ラズダンを迎え、川崎洋、佐々木幹郎と共に日英連詩。同月、フランス語訳詩集”Dans
l’Oc´ean du Silence”(traduit par Dominique Pal-
m´e, ´ed. Voix d’Encre)が Mont´elimar より刊行される。
十一月、「毎日新聞」に田村隆一を追悼する詩「こほろぎ降る中で」発表。

一九九九年(平成十一)
一月、「現代詩手帖」に詩「では、静かに行かう」を発表。
二月、『拝啓 漱石先生』を世界文化社より、三月、『名句歌ごよみ 春』を角川文庫(以下夏、秋、冬、新年恋の各巻を順次刊行)の一冊として刊行。
五月、シリーズ「日本の古典詩歌3」として『歌謡そして漢詩文』を岩波書店より刊行。
六月、詩集『捧げるうた 50』を花神社より刊行。
七月、シリーズ「日本の古典詩歌2」として『古今和歌集の世界』、九月、「日本の古典詩歌4」として『詩歌における文明開花』、十一月、同じく「日本の古典詩歌5」として『詩人たちの近代』を岩波書店より刊行。
九月、ベルリン芸術アカデミーにて、ユルゲン・ベッカー(独)、アダム・ザガヤルスキー(ポーランド)、インガー・クリステンセン(デンマーク)と大岡信(日本)による四カ国語詩人の連詩。
十月、静岡県静岡市清水市境の有度山頂のホテルにて、ウリ・ベッカー(独)、ドゥルス・グリューンバイン(同)と谷川俊太郎、高橋順子、大岡信による日独静岡連詩(静岡連詩第一回)。

二〇〇〇年(平成十二)
一月、「現代詩手帖」に「戯詩二」発表。同月、『日本の古典詩歌1「万葉集を読む」』を岩波書店より刊行。
二月、『おもひ草』を世界文化社より刊行。同月、大岡亜紀個展、東京銀座ギャラリー上田にて開催。
三月、『日本の古典詩歌別巻「詩の時代としての戦後」』を岩波書店、コレージュ・ド・フランス講義のドイツ語訳 “Dichtung und Poetik der alter Japan” エドゥアルト・クロッペンシュタイン訳をカール・ハンザー書店より刊行。
四月、『窪田空穂歌集』(編・解説)を岩波文庫より刊行。また同月 “ORIORI NO UTA”, poems for all seasons (translated. by Janine Beichman)を、””Love Song from the Manyo_shu_” を 宮田雅之(切り絵)、大岡信(解説)、リービ英雄(英訳)によりそれぞれ講談社インターナショナルより刊行。
七月、「現代詩手帖」に詩「蜜蜂をたたへる」「ゴルフ場の神経はげ」を発表、また同誌には野村喜和夫によるインタヴューも掲載される。
八月、 Ha¨ngebru¨cken, Berliner Renshi, 1999 がEdi-
tion q より刊行される、Jurgen Becker, Inger Christensen, Adam Zagajewski, Makoto Ooka (翻訳者福沢啓臣)。十月六日、オランダのポエトリー・インターナショナル主催による日本・オランダ連詩相互交流の会で連詩朗読、日本側参加詩人多田智満子、谷川俊太郎、高橋順子、大岡信。十一月、静岡市にて、北島(中国)と新藤凉子、財部鳥子、高橋睦郎、大岡信による日中静岡連詩(静岡連詩第二回)。なお、この年の三月一日から二十四日まで、コロンビア大学ドナルド・キーン・センターの招聘により、ニューヨークのコロンビア大学、クーパー・ユニオン大学、ニュージャージー州プリンストン大学、マサチューセッツ州ハーヴァード大学、ボストンおよびサンフランシスコのジャパン・ソサエティその他で、講演と詩朗読を行なう。
七月末から八月初頭、オランダのアムステルフェーン市で、オランダ在住画家吉屋敬による大岡の詩をテーマとする詩画展が開かれ、同地で日本の詩歌について講演。
十月、「現代詩手帖」特集「生誕百年 三好達治新発見」で中村稔と対談、「凛とした詩語の音楽」。

二〇〇一年(平成十三)
一月、「現代詩手帖」に詩「世紀の変り目にしやがみこんで」「オケィジョナル・ポエムズ」を発表。同月、『百人百句』を講談社より、『詩の日本語』を中公文庫より刊行。
二月、『現代詩人論』を講談社文芸文庫より刊行。
三月、『人生の黄金時間』を角川文庫より刊行。
四月、「声で読む日本の詩166」と題する『おーい、ぽぽんた』(櫂同人共著)を福音館書店より刊行。
六月、大岡亜紀第一詩集『新バベルの塔』、花神社より刊行。
十月、詩集『世紀の変り目にしやがみこんで』を思潮社より刊行。「ここにうずくまる、しゃがみこむというか。詩を恵まれた、瞬間に置く、という、意味には、夢みられる、さいごでの、わかれぎわできっと起きる、ことだろうという、深層のメッセージがある。/われわれは大岡氏に任せてばかりで、怠慢だった。/いろいろの去来する、ことごと、たとえば「伝統と近代」という、思念や、西洋詩と擦れあってゆく、日本詩の、呼吸や間合いのとり方といった、根の深い、作業を、あらかた氏におしつけていまにいたった、という、ことにこうして思いあたる。/氏はそれらの先端部位で、報告する。新世紀は伝統も近代も、ぜんぶ引きずったままである、と。そのことを作品において、氏はわれわれにわからせる。みごとな、この《現在》の織り方だという、ほかはあるまい。」(藤井貞和・『世紀の変り目にしやがみこんで』書評「現代詩手帖」二〇〇一年十二月号)
十一月、大岡亜紀個展、東京銀座ギャラリー上田にて開催。
十一月二十一日より二十四日まで、静岡市でカイ・ニエミネン(フィンランド)、ニルス・アスラク・ヴァルケアパー(サーミ人)、大倉純一郎(フィンランド語翻訳)、高橋睦郎、木坂涼、大岡信による第三回静岡連詩の会。会終了後上機嫌でノルウェーの自宅に帰るため成田から帰国の途についたアイルは、ヘルシンキで一旦大倉家に一泊したが、その間に心臓麻痺で急死、日本への旅が最後の旅となった。

二〇〇二年(平成十四)
一月、「現代詩手帖」に「唄はれる詩」を発表、また粟津則雄と新春対談、「単純な言葉、複雑な内容」。同月、『子規選集』第四巻『子規の俳句』に子規の全句より一四〇〇句を選び、解説をつける、増進会出版刊。
三月、出雲市より委嘱され、混声合唱のための組曲「頌歌 天地のるつぼ――出雲讃歌」(鈴木輝昭作曲)を作詞。同月十七日出雲市民会館で初演。同時に音楽之友社より楽譜刊行。
四月九日、安東次男死去。十六日、告別式で弔辞。
六月、野平一平作曲による「大岡信の二つの詩、混声合唱とピアノのための」を全音楽譜出版より刊行。
七月、「すばる」特集「昭和の詩」で谷川俊太郎、井上ひさし、小森陽一と座談会、「日本語のリズム」。同月、ジャニーン・バイチマン訳『対訳・折々のうた Poems for All Seasons』を講談社インターナショナルより刊行。
四月より毎月一回のペースで神田淡路町Z会ビル内において、数十名の聴講者を募集、自作の詩を題材に自由に語るという主旨の「大岡信フォーラム」開講、毎回そこで語ったことをパンフレットにまとめ、聴講者たちに次回配布する。世話役は増進会出版および大久保憲一。
八月、ことばと文学による国際文化交流と相互理解に多大な貢献をしたとして、「国際交流基金賞」を授賞。
八月三日、伊藤信吉死去。
九月八日、稲葉三千男死去。同月、フランス語選詩集 “citadelle de lumie`re”(traduit par Domi-
nique Parme´ )が ピエキ書店およびユネスコ共同出版により刊行される。

*本年譜は、三浦雅士氏による「ユリイカ」一九七六年十二月号特集「大岡信」所収の「年譜」、及び『大岡信著作集』に付された「年譜」、さらに『現代詩読本 大岡信』所収の「大岡信年譜」、そして講談社文芸文庫『現代詩人論』所収の「年譜」をもとに作成し、著者の校閲を経て編まれた。